成蹊学園史料館

成蹊学園の変せん -教育-

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史料館の刊行物

受業服

芋掘りの様子

VIM3型 No.221750

観察図
成蹊学園校内衣
『作業服』と『受業服』
『ライツ鉱物顕微鏡 VIM3型』 No.221750
『作業服』と『受業服』は大正末期に制定された成蹊学園の校内衣です。 大正3年に中学校、翌年に小学校が開校し、まず両校の男子の制服(海軍士官型)のみ制定されました。 女子は私服のままとし(大正8年まで)、着物での登校の児童も多い大正5年、制服より先に『作業服』が決められました。 小倉地の堅牢なもので、「芋掘り」などの作業の時間に着用しました。(写真下)

「作業」、「園芸」は成蹊学園開校時より、成蹊独自の教科として重きをおいていましたので、いち早く定められたことも頷けます。 大正9年には、全校生徒共通の『受業服』一式が制定され、校内衣として永く愛用されました。(写真上)

登校後、制服の上から『受業服』の一種である上着(ガウン)をはおり、学園での勉強に勤しみました。

女学校では、質素を旨とし、奢侈に流れぬようとの教育的意図もあって、私服の着物を覆うようにして纏いました。

教師も共に着用し、児童・生徒と一体となって教育にあたったことは、成蹊学園の誇るべき特徴といえましょう。

現在の成蹊小学校の校内着(ポロシャツと半ズボン)と比較しますと、「衣」と「着」の違いとはいえ、隔世の感があります。

(学園史料館)

この顕微鏡は、大正14年に旧制高校の地質鉱物学の実験用器具として購入されたものです。

当時の高等科理科第1学年の履修科目の一つ「鑛物及地質学」の授業で毎週2時間の実験に使用されたものです。

その後、新制高校の地学科研究室に引継がれ最近まで使われておりましたが、平成9年に史料館に移管されました。

備品台帳によると、購入先はライツ社、6台購入の内の1台で、価格は1台270円と非常に高価なものです。 ちなみに昭和2年度の「成蹊高等學校一覧」によると『授業料ハ尋常科年額八十圓、高等科年額百圓トス』とあります。

顕微鏡の観察図は、昭和2年度理科第1学年生徒の「火成岩鑑定実験成績」の一部です。施設および器具類は一級品を揃え、一流の授業を行ったことが窺えます。

(学園史料館)


成蹊の歌

校歌

展示中のマント
白線帽(複製)と護皇旗(校旗)

当時の高校生
編集 成蹊高等学校(旧制)同窓会
発行 学校法人 成蹊学園

歌集『成蹊の歌』
『成蹊高等学校(旧制)時代の
マントと白線帽 』
この歌集は旧制高等学校創立75周年記念事業の一つとして「成蹊高等学校(旧制)同窓会」が編集を行い、平成12年10月成蹊学園が刊行したものです。

編集方針は成蹊学園の教職員、学生、生徒、児童が作詞、作曲した学園歌(学園や学園が関わる行事で演奏する為に作られた歌および曲)の楽譜と歌詞を出来るだけ漏れなく蒐集し、作られたときのものに近い形で刊行することとし、平成12年3月までに蒐集されたものを掲載しています。
なお校歌にも歌われている「心力歌」は「歌」としての範疇が異なることから掲載されておりません。

■成蹊の歌を掲載した歌集には、次のようなものがあります。

※「歌集」第一号 成蹊高等學校文藝部 年不詳
※「歌集」第二号 成蹊高等學校校友會雑誌部 昭和21年
※「成蹊歌集」 成蹊中学・高等学校内「成蹊歌集」委員会
  第一版 昭和38年
  第ニ版 昭和40年
  第三版 昭和44年
※「わたしたちのうた」成蹊小学校教育研究会 昭和28年
※「みんなのうた」成蹊小学校 平成9年

(学園史料館)

旧制高等学校の気風は、バンカラと称されます。バンカラとはハイカラ(おしゃれの意)の反対語で、その意味する本質は単なる蛮風ではなく、外見的なファッションにこだわるハイカラを軽蔑して、外面よりは内面の精神を大切にする心意気を示したものでした。 学生の象徴的な服装としては、白線帽にマント、朴歯の下駄でした。 白線帽もマントも、よれよれになったものほど珍重され、下駄も汚れたものほど愛用されました。

一方、1920年代に創設された7年制高等学校の多くは英国のパブリックスクールをモデルとし、服装についても既存旧制高校とは一線を画していました。 海軍式蛇腹スタイルや背広、マントに代わるオーバーの採用、帽子の白線の廃止といった方針がとられました。

成蹊高等学校(旧制)は、浅野孝之校長時代には、学生の再三の要望にも拘わらず帽子に高校のシンボルとしての白線をつけることは 「自ら恃するところあるものは外観にこだわるものではない」として許しませんでした。 土田誠一校長が後任となり、1940(昭和15)年に高校生としての自覚を促すために高等科学生の「帽子の白線」と「マント着用」を許可しました。

(学園史料館)

今村先生似顔絵
(北澤楽天筆彩画)
今村繁三先生筆日本画
(唐紙犬張子画)
『今村繁三先生のエピソード
「五一ぢいさんとアイスクリーム」 』
『校章』
今村繁三先生は学園の理事として足繁く来校になり、特に小学生と生活されることがこの上もない楽しみでした。格式ばらない優しい先生のお人柄が偲ばれるエピソードをご紹介しましょう。

1927(昭和2)年、2年生が「尋常小学国語読本巻三」の「五一ぢいさん」の学習をしているときに、今村先生が教室に入っていらっしゃいました。この文章に出ている五一ぢいさんは働き者の立派な人物でした。 ある児童が、「五一ぢいさんがいらっしゃった。」と言い出したことをきっかけに、その後児童たちは今村先生を「五一ぢいさん」と呼ぶようになりました。 小学校の教員達は理事に対して失礼だと「これから今村先生を五一ぢいさんとお呼びしてはならない。」と言い渡しましたが、 今村先生は「子供たちから五一ぢいさんと呼ばれなくなり、淋しくてたまらない。 あの呼び名は親近感があって実によかったので、五一ぢいさんと呼ぶように伝えてほしい。」と言い、再び子ども達は先生を「五一ぢいさん」と呼び楽しく遊びました。 4年の年月が過ぎ、1932(昭和7)年3月、この児童たちの卒業式後の謝恩会の際、児童たちの席にアイスクリームが並べられていました。 その時、今村先生がお立ちになって、「みなさんご卒業おめでとう。あなた方が2年生であった時、私があなた方にアイスクリームをおごることを約束したことを覚えておりますか。 忘れてしまっている人が多いと思いますが、私は一日として忘れたことはありませんでした。 しかし、あの時あなた方だけにおごったのでは他の学年の人たちにすまないので、あなた方にいつおごったらよいか、その日を考えていました。 そのおごる日は今日やって来たのです。 卒業証書を手にしたあなた方はもう小学生ではありません。私のささやかなお祝いの贈物を受けてください。」と話されました。
(成蹊会誌34号 香取良範先生文より)
成蹊に学ぶ児童・生徒・学生・教職員に親しまれている校章。 「此の夏明治大帝の諒闇あり改元大正元年となった。帽子の徽章は成蹊の成の字を葉の付いた桃の實の上に配した中村先生御考案のものであった。」 (創立四拾周年記念特集「斯の道の為に」より)とあるように、創立当初から原型は変わらないようです。

①は成蹊が池袋にあった時代に先生方がガウンの襟につけていたもの②は成蹊実務学校、③は成蹊女学校のバッジです。 ④は1935年ごろの成蹊小学校のバッジ。かなり現在のかたちに近づいてきています。そして、⑤が現在サービスマーク登録されている校章。

時代とともに少しずつ形を変えてきていますが、成蹊設立当初からの精神を伝えてきているのでしょう。 ロゴマークが決まったことによって目にする機会は少なくなるとは思いますが、大切に守っていきたい成蹊の校章です。
KOKORO NO CHIKARA
(ポンソンビー翻訳)
前列左より
ポンソンビー先生と中村春二
中村春二筆
『こころの力』 折本一帖
『KOKORO NO CHIKARA OR
THE POWER OF THE SOUL』
「こころの力」は、成蹊実務学校が開校されて2年目の大正2年(1913)、学園創立者中村春二の依頼により学園幹事として教鞭をとっていた小林一郎教授が執筆、同年10月に完成し、 実務学校校歌に制定されたものです。同年11月11日から誦詠され、学園から発行されていた機関紙「こかげ」12月号誌上に発表されました。小林教授は 中村と第一高等学校・東京帝国大学を通じての同期生であり親しい友人でした。 法華経研究では、わが国の第一人者であり、古今東西の聖典に通じ、学園、生徒に多大の感化を与えています。

これより先、中村は坐禅の精神に加えた精神統一の方法として凝念(ぎょうねん)ぎょうねん凝念法を編み出し、実地に生徒に行わせましたが、 この凝念が無念無想の境地にあって精神を一つに集中する訓練であるのに対し、「こころの力」は各自が無意識にもっている精神力の偉大さを自覚させるものでした。 以後、凝念に加え、この「こころの力」を唱和させるようになりました。
第8章の中の一節「平らかに思い、安らかに動けば」を中村が墨書したものです。

この折本にある全8章は、断食会の際墨書されたもので、巻末に「大正六年八月廿四日断食終了の日、記 枯林」と自署されています。枯林は中村の号。

現在でも「こころの力」を知る人からは問い合わせが絶えず、また学園では毎年「心の力」を新入生に配布し、成蹊教育の精神を伝えています。 校歌にもある「心力歌……」とは、この「こころの力」のことをさしています
「こころの力」は、リチャド ・ポンソンビー・フェーンによって英訳され、1923年に成蹊学園出版部より発行されました。

1918年夏、中村春二は香港総督秘書官をしていたポンソンビー・フェーン伯爵と知り合いになり、大いに肝胆相照しました。ポンソンビー氏は英国の名門の貴族で、後に日本神道の研究によって法学博士の学位を得た哲学者でもあり、日本名を「本尊美利茶道」と称しておりました。
中村の要請を受け、1919年8月より居を東京の駒込神明町に定め、成蹊学園で英会話と英作文を講ずるようになりました。

氏は月給を辞退し、無給教授として中村が亡くなった1924年まで成蹊学園で教授を続けられました。 発音については特に厳しかったそうです。日本に滞在中は写真のように紋付、袴、白足袋という和服姿で過ごされ大変な親日家でありました。

ちなみに、ワールドカップ・サッカー日本代表のユニフォームのエンブレム「八咫烏」についての研究論文も1934年に発表されております。

(表紙 三宅克己 画 色刷)
 
現在の小学校の凝念

1915(大正4年)頃
『寄宿舎日記』 中村枯林(春二)著
明治40年6月 春光館書店刊
『凝念法のめざすところ』
「成蹊実務学校一覧」1914年所載
本書は中村春二が30歳(明治40年、学生塾「成蹊園」を開かれた翌年)のときの著作で、自らを地方より上京した一中学生に擬して、1年間の寄宿生活を日記体の形式で書かれたものです。

夏やすみに歸省せんとする小友におくらんと
書店の前に立ちてかれこれの書撰びし折柄襷
には長く蔕には短しの譬のそゞろにおもひい
でられしにふとおもひたちて筆とりぬ味は縱
令淡しとはいへ世の憂さしらぬわが小友の伴
侶ともなれやと。

 四十年初夏 枯林生(原文のまま)

との粋ともいえる序文に惹きこまれ、思わず4月の章の頁を繰ります。

窓ぎわの櫻のを仰ぎ乍ら、 僕の胸は何んとなく希望にみち渡った、(後略、原文のまま)

にはじまり、毎月の学校行事にしたがって日にちの所感が記され、3月の卒業の章の完了まで220余頁におよんでいます。 そこには教育を受ける側の一中学生になりきりながら、教育者としての理想像が語られており、 後年に 中村が実践した成蹊教育の縮図そのものともいえましょう。

(学園史料館)

1912(明治45)年、実務学校で実施された「凝念法」とよばれた精神統一法は、その後、成蹊教育の根底となった重要なものです。 「凝念」という名は仙台の第二高等学校の座禅堂の名称である凝念洞からとられました。 授業開始前の30分間、職員生徒は全員この凝念法を行うのを常としていました。 またその後の学習効果は大いにあがったとのことです。現在は小学校と中学校で行われています。

「凝念法のめざすところ」として中村は次のようにかかれています。

この圖を見つめてゐると、黒い菱形が材木の底ともなり、叉忽ち材木の頭ともなります。 この變化は心の變化で、運命の變化の最も短期間のものと云つてよいと云ふ人があります。 この様に人の心は刻々に自ら變つて行くものゆゑ、外界の種々な刺激に遇つて變るのは當然のことです、 それゆゑ我々はこの自己自身の變化外界の刺激に伴ふ變化に對して自ら適當な態度を取り得る覺悟は大切です。 この覺悟が私の稱へている凝念法のめざすところです。(ナカムラ)

『中村春二のスクラップブック』
1911年〜1915年
『教育一夕話』 中村春二著
中村春二は、当時の社会反響を捉えるために多数の新聞記事を収集し、スクラップブックに収めておりました。 その中より1911(明治44)年10月17日の読売新聞に掲載された「成蹊実務学校」の記事を紹介いたします。 九十年の歳月を経て紙面は黄ばみ、劣化しておりますが、学園史料館に大切に保存してあります。

成蹊實務學校 ▽一種の俊才教育
設立者は文學士中村春二氏、賛助員は岩崎小彌太、今村繁三の兩氏で、校舎は設立者が私財を投じて来月から新築にかかり、經費毎年六千圓を両賛助員が出し、先づ一年級二年級各廿五名の生徒を募集する 中村氏、語る所によれば

▲成立の趣意 中流以下の家庭で中々出来のいヽものがあるので、それを放つて置くのは國家としても少なからぬ損害である。此の學校は其の救濟を目的とし、即ち

▲月謝束修を全廢 本人は唯和服に袴をつけて登校すればよいのである。

▲学校の規定 就業年限は五年間で、土曜日の午後の休、春休、夏休を廢するから、普通の中學の九年間に當るし、猶生徒の出来るに従ってドシドシ學課を進めるつもりである。一級は廿五人を定員とする、この位なら此の學校の目的を貫徹する事が出来るであろう。

▲卒業生の前途 に對しては學校は責任を以て就職せしめ、其後も監督して學校と生徒の間を永く保たんとするのである。 猶卒業生でも在學生でも實務に従事せしむるより、學術の蘊奥を究めるのに適したものは別に方法を設けて高等學校へ入れるつもりである。
本書は、大正3年(1914)11月7日、成蹊実務学校から発行された菊判・仮綴じ・26ページの小冊子です。

表紙サブタイトルに「一、國民教育の缺陥 今の小學校は根柢から改革せねばならぬ」<原文のまま>とあり、 はしがきに「今日の教育は外形整然として私共の容喙を許さぬ様に見えますものゝ、深く其の内容に立入って静かに考へますと、種々な欠陷があるやうに認められます。 (中略)それ故、先づ小學教育の實際に就て特に感じたことを記述し識者の教へを乞ふことゝいたしました。」<同>と記されております。

学園を開設して3年目、実務学校、中学校における新しい教育の実践体験から学級定員のこと、児童の注意力の集中訓練に関すること、 また教師と児童との間の心の共鳴一致の大切さ―等、実例を挙げて種々論証を行い、教育の根幹、その指導原理についてすぐれた見解を示しておられます。

成蹊小学校は翌大正4年開校されました。

【お問い合わせ先】
成蹊学園史料館
住所:〒180-8633 東京都武蔵野市吉祥寺北町3-3-1
TEL:0422-37-3994 MAIL:archives@jim.seikei.ac.jp

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