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第22回 国際経済学
国際経済学と日本の東アジア外交
成蹊大学経済学部 教授 永野 護(ながの まもる)
プロフィール
横浜市立大学商学部経済学科卒業。大阪大学大学院国際公共政策科博士課程修了、博士(国際公共政策)。三菱総合研究所、アジア開発銀行勤務を経て2012 年より現職。著書に『アジア金融アーキテクチャ』日本評論社、など。トムソン・ロイター通信客員コラムニスト(〜2011年)、三菱総研客員研究員(〜2011年)、日本銀行アジア金融協力センター研究委員(〜2009年)等を兼務する。
日本の外交政策と有権者の選択
 2009年に誕生した民主党政権は、国民との契約書、マニフェストにおいて、東アジア共同体構想の推進を掲げています。解散総選挙の実施が秒読みとなった今(2012年12月4日時点)、残念ながらこの外交政策は手つかずのまま、民主党政権は終焉を迎えようとしています。しかし、今後の我が国でいかなる政治体制が発足したとしても、東アジア政策の強化と推進は、避けられない課題です。なぜ日本は、日米同盟を基軸とする日本の戦後外交から、東アジア政策重視型の新思考外交へ向かうのか、またそれはどのような未来を有権者にもたらすのか、その答えは国際経済学の枠組みの中に求めることができます。
日米同盟から東アジア政策へ
 国際政治研究者の見方では、日本の外交政策が対米重視型からアジア政策へ向かい始めた時期は、1998年が概ねのコンセンサスとされています。戦後60年の自民党政権時代にも、いわゆる1977年「福田ドクトリン」など、東アジアとの関係強化を提唱する政策が単発的に掲げられたことはありましたが、その実施が本格化したのは、この時期以降であるとの解釈です。1998年以降の日本は、東アジアとの関係強化において「ASEANプラス3」の枠組みを構築し、ASEAN諸国を冠に抱く地域首脳外交を定例化することで、米国に配慮しながらアジア外交を進めてきた経緯があります。
 もともとASEANプラス3首脳会議の枠組みは、1997年のASEAN設立30周年に、日中韓が招待された、という建て前となっています。1998年以降、日本がこの経緯を逆手に取り、この会合を積極活用するようになりました。ここで重要であるのは、戦後の1946年以降のいわゆるIMF・世界銀行体制、1947年からのGATT・WTO体制等の多国間協議とは異なり、日本のアジア外交では金融面で二国間通貨協定、通商面で二国間自由貿易協定、という二国間協定交渉が、外交交渉の中心的な役割を果たしてきたことです。
オバマ政権のアジア太平洋戦略
 軌道に乗り始めた日本のアジア政策も、2008年のリーマン危機、2009年のギリシャ危機により方向修正を余儀なくされます。この時期以降、世界経済の牽引役として中国市場の影響力が強まったため、ASEAN諸国が対中関係を強化する機会としてASEANプラス3首脳会合を利用し始めます。また米国も、アジア太平洋地域において、TPPという新たな多国間通商協定の枠組みを提唱し、この地域での通商外交政策を強化する姿勢を強めています。
 かねてより米国政府は、自らの成長戦略の一環として、アジア太平洋地域での自由貿易圏構想を提唱してきました。その理由は日本同様、やはり米国政府や米国企業にとっても、「世界の工場」から「世界の市場」となりつつある同地域の市場が魅力的であるためです。この成長戦略に適う新たな通商政策としてTPPを主導することで自らの成長戦略を具現化する政策への転換を図ってきたのがリーマン危機後のオバマ外交です。
 またオバマ大統領の新アジア太平洋政策を支持するASEAN諸国も増え始めています。今後もASEAN諸国の中で、農産品市場開放に消極的な日本との通商交渉よりも、米国の新政策を後押しすることが、自国の国益に適うと考える国が増加することは間違いないでしょう。ポスト民主党政権時代の日本のアジア外交がどのような針路を採るべきであるのか、こうした課題の解決策を探ることが、「国際経済学」教育の課題であると考えられます。
2005年フィリピン・エネルギー省での講演
2005年フィリピン・
エネルギー省での講演
2008年韓国・韓昇洙(ハンスンス)首相(当時)公邸晩餐会にて
2008年韓国・韓昇洙(ハンスンス)
首相(当時)公邸晩餐会にて

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