視程観測

 2001年版 宮下 敦・内田信夫・倉茂好匡・湯本晋一(1994) 成蹊気象観測所における視程観測について,天気,41,711-716 を改変

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目次

 概要
 視程とは
 観測開始の発端
 観測方法
 観測結果
 大気汚染との関係
 教育利用
 謝辞
 引用文献


概要
 東京都西部の武蔵野市から富士山,東京タワー等を視程目標とした視程観測を38年間にわたって行った.
その結果,これらの視程目標が見える日数は,この38年で漸増を続ける傾向にあり,この間の浮遊粉塵量の減少とよく一致している.これは日本の高度成長期に著しく悪化した視程が,公害対策や経済状況の変化によって,回復しつつあることを示している.東京郊外から都心方向とその逆の方向の視程の回復状況には差があり,都心での視程回復が都心の湿度変化などの原因による可能性が示された.
 このような観測は,特殊な機器等を必要とせず,子どもでも簡単に継続実施できるものであり,大気汚染状況の変化を直感的に説明するのに有効である.
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東京タワー方向の視程 富士山方向の視程


視程とは
 視程は地表付近の大気の混濁の程度を距離で表したもので,気象観測法などでは,視程目標の形を識別できる最大距離を示す.その観測結果は,交通機関の視程障害など安全上の観点から重要である.また,大気の濁度を示す点で,大気汚染を直感的に表すことができ,汚染状況の指標として使うことができる.
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成蹊気象観測所での視程観測の経緯
 成蹊学園における気象観測は,尋常科理化教諭であった加藤藤吉氏が,1926年1月1日から気象観測法に準拠した観測を教育の一環として導入したことに始まる.その後,1942年(昭和17年)〜1976年(昭和51年)までは,東京管区気象台の甲種補助観測所に指定され,「吉祥寺観測所」として観測を行うとともに,加藤氏の定年により1959年から「成蹊気象観測所」の名称で学園の組織として観測報告を発行を開始した.2000年末で観測開始から75年を経過している.
 視程観測は,学園内の中学・高校校舎の移転に伴い屋上からの見通しがよい建物ができたことをきっかけとして,都心方向と郊外方向の視程を比較する目的で1963年(昭和38年)に加藤氏によって始められた.観測開始当時は,大気汚染状況の把握をはっきり意識していたわけではなく,従来は行っていなかった視程観測をとりいれるのが目的であった.しかし,1973年の所謂オイルショックを契機として,視程が著しく改善されたことにより,大気汚染との関連が再認識され,視程観測の開始後20年の時点で報告がなされた(内田,1983) .2000年末で観測開始から38年を経過し,延べ観測日数は 1万日を超えている.
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視程観測の方法
 成蹊気象観測所は,東京都武蔵野市の成蹊学園内にある観測施設で,東経 139度34.5分,北緯35度42.5分,海抜 56mに位置する.視程観測は,毎日 9時の定時観測の際に,肉眼で行っている。観測場所は,1997年までは成蹊高等学校高校ホームルーム棟屋上(地上高約 25m)から,1998年より成蹊中高・中央館屋上(地上高約 25m)である。視程目標としては,観測開始当初から行っている東南東約17kmにある東京タワー,西方約50kmにある秩父連峰および西南西約83kmにある富士山の3つの他に,1987年からは東方約11kmの新宿高層ビル群と南東約 5kmの高井戸清掃工場の煙突を加えている 。その他の方位については,適当な視程目標が設定できないことなどから観測を行っていない.なお,観測所北東方向には,ほぼ富士山と等距離のところに筑波山があるが,これは非常に条件のよい場合にのみ年数日見える程度なので,定常的には観測を行っていない.
 観測結果は,これらの目標が見えたか,見えなかったかを記録する簡単なもので,気象観測法にあるように最大距離を記録する方法は採用していない.視程目標の見え方は日変化するため,条件のよい朝に定時観測していることから,季節によって太陽高度や方向は異なり,背景の明るさは変化している.また,観測所より東方の目標は逆光となるため,西方の目標よりも見にくく,両者のデータを単純に比較することはできない.見え方ははっきり形が視認できる場合から極かすかに見える場合まで様々であり,野帳の段階では見え方 (例えば「かすかに見えた」など) をある程度記録しているが,統計をとる場合にはこれを区別していない.従って,この観測は厳密な意味の視程そのものを測っているわけではない.

視程目標の位置関係 東京タワーと富士山の年間視程日数の変化
locality map

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観測結果
 富士山の見えた回数は,観測開始後10年の平均は43日で,1965年には22日まで低下したが,1973年のオイルショックを期に急増し,以降年70日前後で推移している.ちなみに,最もよく見えたのは,1984年で年間90日であった.秩父連峰の見えた回数についてもほぼ同様の傾向を示すが,1980年頃を境に年 100日前後まで増加している点が注目される.
東京タワーの見えた回数は,観測開始後10年の平均は69日で,1969年には年29日まで低下し,距離にして3〜4倍くらい遠い富士山や秩父連峰よりも見えにくくなった.しかし,1972年頃を境に増加傾向に転じて年 100日を越え,漸増して1993年には 159日に達した.

 東京タワーの月別視程日数の経年変化
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富士山の月別視程日数の経年変化
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tower monthly fuji monthly

年間の見える日数の内訳について見ると,季節による変化が最も大きい.観測所から西方の視程目標については,風が強く大気が乾燥した冬季が見える回数が多く, 1月に極大となる.逆に湿度の高い夏季は少なく, 7月は台風の通過後など月数日見える程度で,1ケ月間まったく見えない場合も珍しくない.観測所から東方(都心方向)の視程目標は,距離が近いこともあって,西方の目標ほど季節による差は大きくないが,やはり夏季は少なくなっている.また, 1月や12月は,より遠い富士山や秩父連峰が,東京タワーよりも見える回数が多いことがしばしばある.
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視程と大気汚染条件の関係

 いうまでもなく,視程は気象条件の影響を最も強く受ける.富士山の場合,非常に視程がよくても,地形性の雲に被われ山体が見えなければ,この観測法の場合見えた日としてはカウントされない.また,一般に雲がなく天気のよい日に遠くまで見えることが多いが,雲底から下層で風が強く拡散がよいときには,曇っていても視程がよいのはしばしば体験されることである.逆に接地逆転層があり,地表付近が煙霧で覆われていても,高度が高ければ視程がよい場合もあり,同方向にある秩父連峰が見えなくても富士山山頂が観測されることも極まれにはある.従って,このデータを用いて日々の大気汚染状況を比較することはもちろんできない.
しかし,月または年単位で集計していくと, 1日毎の気象条件の差は相殺されてしまい,全体的な傾向として大気の濁度の変化を示すことができる.ただし,この場合も年単位の気象条件の変化(暖冬や冷夏など)の影響を取り去ることはできないから,年間で見えた回数の差を数日単位で議論することもできないことには注意しなければならない.
 そうした前提の上でデータを見ると,すべての視程目標で見られる1973年を境とした回復は,オイルショックを境とした浮遊粉塵量の減少(Komeiji et al.,1990) と非常によく一致しており,原因が大気汚染状況の改善にあるのはほぼ間違いないと考えられる.従って,その他の見えた回数の経年変化も大気汚染の変化に原因を求めることが可能であろう.例えば1980年頃の回復は,排煙脱硫装置の普及などに起因するSOX の減少に起因すると推定される.富士山の視程日数について,最も視程が悪かった1967年と最近(1997年)で比較すると,1967年では風速1m/sを下回ると見える日がなくなる.これは風が弱い日には汚染物質が滞留して,視程が悪くなっていることを意味するのだろう.同様に富士山の視程日数を詳しく解析した三澤ら(1998)のデータもこれを裏付ける.

富士山の見える日の条件の変化
横軸が湿度,縦軸が風速
赤丸が1967年,青丸が1997年
1967年は風速1m/s下回ると見えなくなる

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 東京タワーが見える日の条件(1997年)
 横軸が湿度,縦軸が風速
 白丸が見えた日,黒丸が見えなかった日
 見えるか見えないかは,湿度による影響が大きく,湿度が低い
ほどよく見える
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 また,視程は異方性があり,また目標の大きさによっても見える回数には差が生じるので単純な比較はできないが,冬季において東京タワーの見える回数が富士山のそれより少なくなる傾向があるのは,関東地方に特有の現象であると考えられる.これは,冬季に風が強く晴れた条件で接地逆転層が発生することが多いのに加え,初冬の関東地方では東京湾上に局地不連続線が発生し,これに伴って大気汚染が悪化するといった現象(水野ほか,1993)などに対応するものだろう.しかし, 1月と12月の見えた回数の経年変化を見ると,この傾向は解消されつつあり,近年この時期の見える回数は東京タワーが富士山を上回るようになっていて,都心方向の視程は回復する傾向が認められる.1980年以降都心部の浮遊粉塵量やSOX 量などの大気汚染状況が著しく改善されているわけではないから,この回復は汚染の状況変化に対応したものではない.右上の図に示すように,東京タワーの視程日数は湿度の影響を大きく受けるので,視程日数増加の原因としては,東京都心を中心としたヒートアイランド現象の進行に伴う湿度の減少などが指摘できるだろう.
 こうした視程の回復がどの程度まで進むかは予想することが難しいが,一つの手かがりとして過去の観測記録がある.例えば,明治初期に日本に招かれたアメリカ人科学教師Veederが1877年12月〜翌1878年10月までに,東京本郷から午前 7時と午後 1時30分の 2回,富士山を含む 5つの山が見えた回数を記録している (渡辺,1969) .それによれば,現在から 110年ほど前には10カ月間で 1日のうち少なくとも 1回富士山が見えた回数は82日であったとされている.この観測では富士山が見える回数が最も多い冬季の観測値がないので,これを補間すると年 100日前後の回数が期待できる(渡辺,1969).江戸後期から明治初期にかけても東京は大都市であったから,この数字は完全に自然な状態を示したものではないが,それでも現在よりもかなり高いといえる.富士山の見える回数は少なくともあと30日前後は増加させることが可能であろう.
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教育面での視程の利用

湖沼の水が汚れているかどうかを表すのに透明度を用いるのはよく知られている.同様に,大気の濁度を直感的に表現するのに,視程は優れた指標となる.「大気汚染物質が何ppm 含まれている」という定量的表現よりも,「ここの空気は濁っているから汚れている」という方が定性的ではあるが分かりやすい.また,測定の原理も簡単であり,特殊な器具も必要ないので,小学生から大人まで簡単に観察をすることができる (例えば,東京都教育庁,1993,東京都環境局,富士山が見える日) .筆者らの経験では視程測定の理由や原理を話した上で,富士山や東京タワーの見える回数が年を追ってどのように変化したか尋ねると,「年を追って回数が減っているであろう」という子供が多い.これは,「環境は年々悪くなっている」という考えに基づいている.こうした背景の1つには,環境に対する報道機関のスタンスの問題があると思われる.子どもにとっては身の回りの自然について観察をして,その体験に基づいて情報の内容を的確に判断することが大切であり,視程の観測はそうした教材の一つとして有効であると考えられる.
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お礼

成蹊気象観測所の業務を続けるにあたっては大変多くの方々のご援助を頂いた.とくに,視程観測において実際に観測に従事されたのは実験助手の方々である.それらの方々は,上村 喬(気象庁),高橋 賢,小原美枝子,高橋信一,栗原(大滝)啓子,池本 清 (都立松が谷高校) ,長江真司,小松範明(山形県立鶴岡高校),川井和彦(理化学研究所),村野浩之(都立雪谷高校),伊藤雅典(富士通研究所),湯本晋一(北軽井沢町役場),小国一典の各氏である(括弧内は現職).
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参考文献
Komeiji, T., Aoki, K., Koyama, I., Okita, T.:1990, Trend of air quarity and atmospheric deposi- tion in Tokyo, Atomospheric Enviroment,vol.24A, pp.2099-2103.
Kurashige Y., and Miyashita, A: 1998,How many days in a year can we see Mt. Fuji and the Tokyo Tower from the Tokyo suburban area?,Jour.Air, Waste Manage. Assoc.,48,pp763-765
東京都教育庁,1993:環境と公害,東京都教育委員会,p. 33.
成蹊気象観測所,1986:60箇年気象観測報告,成蹊学園, p.150.
三澤 正・山村 順次・中西 僚太郎 1998:千葉県木更津市における富士山の顕明度について,環境科学研究報告(千葉大学) Vol 13,p29-34
水野建樹,近藤裕昭,吉門 洋,1993:東京湾上を横切っ て形成される局地不連続線の構造と成因についての考 察−大気汚染とのかかわり,天気,vol.40,pp.29-180.
内田信夫:1983,富士山と東京タワーの見える日,PPM,vol.14,pp.2-7.
渡辺正雄,1969:東京から富士山の見える年間日数−90 年前と現在,測候時報,36巻,pp.199-202.
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