所長挨拶

アジア太平洋研究センター所長:中江 桂子

 私が研修期間をもらいウィーンで生活していたときのことです。ウィーンの中心部を移動するにはトラム(路面電車)が便利で、私も毎日のように 乗っていましたが、旧式のトラムがまだ多く走っていて、この旧式に乗るためには高い階段を3段ほど登らなければならないのです。
日本のように 交通機関がほぼバリアフリー化された都市から来たばかりの私にとっては、重いトランクを抱えての移動は大変で、なんと不便なのかと感じたものでした。 しかし生活してみると旅行者のトランクだけではなく、お年寄り、足の不自由な方、ベビーカーで荷物を持ったお母さんなど、地元のいろいろな人がトラムを 自在に使っています。どのように高い階段を上り下りするのかといえば、そういう人がいると、周りの人々があたり前のように手をかして補助をするのです。 最初のころ、あまりに自然に周りの人が動くので、顔見知りか何かかと思ったほどです。しかしそうではないのです。 ウィーンではトラムがバリアフリーではないために、たまたま居合わせた人々が互いに手を差し出す光景が日常的に実現していました。日本では対照的に、バリ アフリーを実現できる経済的豊かさのおかげで、人々が互いに無関心・無関係でいられるという光景が妙に気になりました。
 技術が高度化し便利になりバリアフリーであることはもちろん大事なことです。今では情報環境はほぼ文化をバリアフリー化したといっても言い過ぎで はないでしょう。しかし、技術や情報のバリアフリー化にともなって、多様な文化やライフスタイルをもつ人々の心のバリアフリー化が進んでいるかといえば、 実はそうでもありません。私たちは、自分が親しんだ枠組みや環境が決して皆にとって共有できるものではないことを知っています。そのうえ異邦人である自分や 多様な他者と向き合うことは、仲間と一緒に生きることに比べるとずっと居心地が悪いのも知っています。こうして、厳しい時代になればなるほど私たちは、心の バリアフリーとは逆の方向へ、知らないうちに、安心や安全という名のソフトな保守主義や内向き思考のなかへと入り込んでしまいがちになるのが、現在の悲しい 趨勢でもあります。
 ところが、あらゆる研究は、異質なもの、未知なるもの、不可思議なものへの好奇心からスタートします。もちろん、技術と情報のバリアフリー化は、部屋 にいながらこの好奇心をある程度まで満たすことはできます。しかしそれは、実は幾重にもフィルターの掛かった内容であることは間違いないし、そこから発見や オリジナリティが生まれることは極めて困難です。研究が、つねに新しい発見と可能性を広げるものであり続けるためには、フィルターのかからない生の現実や人 間たちに触れ、関係性を結びあい、都合のよいことも悪いことも含めて気づきを持つことがますます必要となります。人間が平和に自由に生きていく世界に近づく ために、世界の多様性を探求することや他者との関係性を構築することは、成果主義的ものさしではどんなに非効率なものに見えようとも、50年100年というスパン で考えるならば、効率的で不可欠な知的資源となるはずです。私たちは冷静に、技術や情報のバリアフリー化の功罪をみきわめ、次世代の世界を想像しながら、未 知なる多様性に向き合う努力を続けようではありませんか。異質な文化間の相互理解には、相当な時間と努力が必要であり、難事業であることも認めなければなり ませんが、これを求め続ける研究者の姿勢は何より価値がありますし、またその研究姿勢を具体的に支援し、交流と発信の拠点でありたいというのが当センターの 精神でもあります。
 成蹊大学アジア太平洋研究センターは、各研究員や所員、職員の方々とも議論しあいながら、発見と驚きと可能性に満ちた研究をはぐくむ環境をよりよく整 える努力をしていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 

成蹊大学アジア太平洋研究センター

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