PICK UP ピックアップ記事

成蹊のおひるごはん
「うちの子は毎日学校で何を食べているのかしら。」そんな親御さんの疑問にお答えし、小学校の給食、中高の食堂・購買、大学の学生食堂など、気になる成蹊のお昼事情をまとめてご紹介します。
人と繋がる。明日へ繋げる。
成蹊の東北復興
ボランティア
東日本大震災から6年。募る被災地への思いを胸に、成蹊の大学生・高校生が今もなお続けている被災地支援・ボランティア活動を綴ります。

山縣選手の陸上教室
リオ五輪銀メダリストの山縣亮太選手(セイコー所属)の陸上教室に、小学生100名が参加した1日をリポート!(毎日小学生新聞主催、セイコーホールディングス株式会社協賛)
ピーチくん4コマ漫画、
連載開始!
成蹊マスコットキャラクター・ピーチくんの4コマ漫画が始動!100年を成蹊で生き抜く桃の奮闘記を、学生作者が多彩に描きます。

INDEX

01

Special Interview 蹊を成す人

作編曲家
服部 克久

09

成蹊のおひるごはん

気になる成蹊のお昼事情をまとめてご紹介!

15

応援に行こう!スポーツ成蹊人

東京武蔵野シティフットボールクラブ
佐藤稜大さん(文学部4年)

16

人と繋がる。明日へ繋げる。

成蹊の東北復興ボランティア

21

山縣選手の陸上教室

リオ五輪男子400mリレー銀メダリストの
山縣亮太選手が成蹊小学校にやって来た!!

23

SEIKEI NEWS

各学校の近況

27

Special News

理工学部 三浦教授が「若手科学者賞」を受賞/史料館企画展示のお知らせ

28

第39回 成蹊桜祭レポート

29

ピーチくん4コマ漫画

蹊を成す桃~100年を成蹊で生き抜く桃の奮闘記~

30

お知らせ/編集後記

31

100年前からのメッセージ

―成蹊教育のDNA―
「自然をみよ」

INTERVIEW インタビュー記事

作編曲家 服部 克久氏

いいことも、悪いことも、
「それでどうした」精神で
やってきた。

作編曲家として輝かしい足跡を
残されている服部克久氏に、
成蹊時代の思い出を中心にお話を伺いました。
音楽界の重鎮であるにもかかわらず
そのお人柄は柔和で軽妙洒脱。
周りを惹きつける、まさに「桃李の人」でした。

1936年、作曲家・服部良一の長男として生まれる。成蹊中学・高等学校卒業後、パリ国立高等音楽院へ留学し1958年修了。日本を代表する作編曲家として、映画「連合艦隊」、アニメ「トム・ソーヤの冒険」、フジテレビ「ミュージックフェア」、NHK 連続ドラマ「わかば」をはじめ幅広い分野で活躍。過去には日本レコード大賞編曲賞、同企画賞など複数を受賞。オリジナル曲を集めた「音楽畑」シリーズは20作を数え、主な作品にTBS「新世界紀行」のテーマ曲“自由の大地”“すごい男の唄”“ル・ローヌ(河)”などがある。現在、日本作編曲家協会会長、東京音楽大学特別招聘教授を務める。息子は作曲家の服部隆之。

何十年前と変わらない風景。あの頃がスッと蘇る。

服部先生が成蹊学園で過ごされたのは70年近く前になりますね。

ここへ来ると、風景があまり変わっていないので、スッと昔のモードに入ります。まず欅並木から見る正面の景色が変わらない。中学時代に記念撮影をした写真が家にありますが、まったく同じように思えます。実家が吉祥寺と西荻窪の間くらいの所だったんです。電車通学でもみくちゃになるのは嫌なので自転車で通えるところがいい。成蹊は当時でも有名な学校でしたから、自然と成蹊を選んだ感じです。成蹊に入学した当時、私の父親である服部良一はすでにヒットメーカーでしたから、そのせいもあって合唱部や成蹊オーケストラに誘われて入りました。オーケストラでの担当はトランペットでしたね。映画で観てカッコいいと思った、そんな単純な理由で選んだ。でも初心者だから高い音が出せなくて、指揮者の先生にもあきれられるし、もう泣く泣くやっていましたね(笑)。

楽器を猛練習するなど、音楽漬けの学生生活だったんですか?

いや、適当な人間でしたから、練習とかいうのは苦手で…。それでも音楽とは縁が深かった。高校の時にはジャズバンドをつくろうということになって、成蹊高校を卒業した先輩たちも交えて結成しました。これだって音楽が好きという前に、当時ジャズが流行っていて、女の子たちからキャーキャー言われたかったからなんですよ(笑)。で、「譜面どうする」という段になった時、みんな当然のような顔をして「服部、お前が作んなきゃしょうがないだろ」と言うんですね。でも、父親は作曲家だけど僕は何もやったことがない。仕方ないから、やりたい曲のレコードを聴いて、耳でコピーして譜面を書いていました。やったらなんかできちゃった、という感じ。僕の編曲のキャリアの始まりです。

硬そうで柔軟。不思議な学校です。

自由な中高時代を過ごされた印象を受けます。

成蹊って不思議な学校で、硬い印象があると同時に、フレキシビリティーというか自由な空気があるんです。生徒を型にはめようとしない。それぞれが様々な興味や能力を持っていて、それを好きにやらせてくれる。だからね、学校は楽しかった。嫌だと思ったことは一度もない。
先生も素晴らしい方々ばかりでした。高名な俳人の中村草田男先生に古文を習ったり、これまた有名な翻訳家である山西英一先生に英語を習ったり…。もっとまじめに授業を受ければよかったと、今さらながら申し訳なく思いますよ。
そして、好きなことをやりながら、たくさんの素晴らしい友人に恵まれた。先ほど話したジャズバンドのメンバーには、先輩に作曲家のすぎやまこういちさんがいました。その後、二人で今の作編曲家協会というのを立ち上げたりして、今でもずっと付き合っています。テレビ局に就職した先輩もいて、僕が作編曲家として駆け出しの頃、仕事の面でサポートしてくれました。
同年配の親友だと俳優の山本學くん、日本弁護士連合会の会長をやっていた梶谷剛くんなど、職業をみるだけでも成蹊の多様性を感じますね。

「桃李不言下自成蹊」この言葉の重みは社会に出ると分かる。

成蹊で得たご友人こそ何よりの財産だと思いますが、成蹊での学びが人生の糧になっていると思う部分はございますか。

校名の由来にもなっている「桃李不言下自成蹊」、特にこれは社会に出てからすごくいい言葉だなと実感しましたし、そうありたいと願ってきました。
僕は自分の自慢とかする人間はいちばん嫌い。そして、俺が俺がと自己主張するのではなく、いつもにこやかにしていて結果をきちんと出すのが成蹊出身者だなって常々思っています。我々の仕事というのは、確かに押し出しが強くないと認められない部分もあります。けれども結果的には、やっぱり自分のことを声高に言わない人の方が、音楽界でも芸能界でも長く愛され残っているような気がしますね。自分の心の中に「桃李不言」の気持ちは変わらず持っていたいと思っています。

音楽の道を歩もうと思われたきっかけについて教えてください。

気がついたらなっていたという感じです(笑)。自分に特別な才能があると思ったことも一度もない。家族がほとんど音楽家でしたので、まあ家業ですかね。
無理やりきっかけを探すとすると、高校卒業を控えた頃に、師事していた芸大の池内友次郎教授から「フランスでも行って音楽の勉強をしてきたらどうか」と言われたことです。それで成蹊を卒業した18才の年、フランス語もろくに話せないまま船で渡仏、パリの国立高等音楽院を受験し、運よく受かった。それからは3年間、毎日毎日、音楽の勉強をみっちりとやっていました。ひとりで異国の地で暮らすことになったんですが、不安よりもワクワクする気持ちの方が強かったです。

大事なのは、自分を確立すること。

パリから帰国され作編曲家になられました。お父様の存在が重圧になることはありませんでしたか。

自分がプロになってからは「ああ、すごい人だな」ともちろん思いました。作曲家として天賦の才能を持っている。そして本当に温かい人で、子煩悩でした。大好きな人だから、乗り越えてやろうなんて思ったことは全くないです。また、僕がやった仕事に対して、父の方から何か言ってくることもなかった。ただ、1983年に「音楽畑」という作品を始めた時に手紙が来て、「やっとお前らしいのができたな」という手紙をいただきました。

これまで手がけられた作品は、実に6万を超えると伺っています。様々な壁や苦労がおありになったかと思いますが。

苦労をしていないのが僕の欠点(笑)。というか、のんびりしていて苦労を苦労と思わないんでしょうね。70才になった時かな、ちょっと脳梗塞をやって入院しました。でも今までにない経験をすると、「こういう時、人はこういう精神状態になるんだな」というような発見があって。その入院体験も後の仕事にとても役に立った。何でもいい方に解釈しちゃうんです。僕の座右の銘は、「それでどうした」。酷い目に遭った時、世の中にはもっと悪いこともあると考えて、あまり気にしない。逆にすごくうまくいった時、例えばカーネギー・ホールでコンサートをやったら、みんな「まあ、すごい」と仰ってくれた。でも、それはたまたまの巡り会わせで、世の中にはもっとすごいことがいっぱいある。だから、「それでどうした」と思って慢心しない。「それがどうした」だと投げやりです。そんなことで、その程度で、という「それで」です。

神は細部に宿る。それが僕の創作スタイル。

仕事をする上で、ここだけは譲れないというポリシーは何かございますか。

「神は細部に宿る」という言葉がありますよね。それは作編曲にも言える。サーッと音が流れる中で、地味な楽器の聴きとれないような一音でも、やっぱりそれが下支えをしている。そこをきちっと書くと、全体がすごくしっかりした曲になるんです。そういう細かいところを大事にするようにいつも心掛けていますね。手間暇もかかるし、そんなところを一生懸命やらなくても、という考えの人もいますが、どうしてもそこは譲れない。自己満足かもしれませんが、そこにこだわるのが自分のサウンドだと思っていますし、自分の音が出た時には大きな喜びを感じます。また、創作する人間は、見聞きしたものに対して頭脳を反応させることが重要だと常々思っています。感激もしない、刺激も受けないということになると、何かを創ろうというふうにはならない。テクニックも疎かにできませんが、それ以上に自分なりの感性を持つこと、磨くことが大切。僕はもともと好奇心旺盛ではあるんですが、流行りの音楽はもちろん、世の中の新しいものに普段からアンテナを張るようにしています。

最後に、成蹊の後輩たちに何かメッセージをお願いいたします。

まず、自分を確立してほしいということ。グローバル時代と言われていますが、ただ世界に出ればいいわけではないし、世界に合わせればいいわけでもない。自分を確立して初めて、グローバルに通用する人間にもなれるんだと思います。
そして、君たちは恵まれた学校にいるんだぞ、ということ。成蹊は、中にいると見えないかもしれないけど、自分の才能を自由に活かすことのできる環境なんです。そういう校風があるし、それを見守ってくれる先生方がいる。それを活かさなかったら、もったいない。とてもいい学校にいることを忘れないで、やりたいことをやってみてください。

Works of Katsuhisa Hattori