所蔵史料紹介

創立者中村春二関係

-書画-

処世七則

1916(大正5)年3月23日

1916(大正5)年3月23日、成蹊実務学校の第1回卒業式が行われました。卒業式で中村は、卒業生15名を前に、わが校の鍛錬主義、精神主義の教育が徹底したかどうかは実社会に出る君たちによって試されると訓話し、「処世七則」を全員に贈りました。中村春二・岩崎小弥太・今村繁三並びに専任教員の自署があります。(学園史料館)

『海の見える秋の渓山亭』

溪山亭は湯河原の山の奥に1921(大正10)年頃建てられた創立者中村春二の別邸です。15坪ほどの小さな藁葺きの庵でしたが、中村自ら図面を引き、「溪山亭」と命名しました。
中村は伊豆の静かな海と山を臨むこの庵をこよなく愛し、晩年の数年間をここで過ごしました。
中村の亡き後、小波夫人も、思い出深いこの庵に移り、「この溪山亭にはお父様の匂いがして、とても気がやすまるの」と子供たちにも語りながら、20年間ここで過ごされました。
今は跡形もなく取り壊され、周辺の景色も一変してしまっています。
このほか、水彩画『山の見える春の溪山亭』も描かれており、この二点は、かつて庵での寧日の折おりに詠まれた創立者と小波夫人のお歌をもとに、ご子息の中村文雄氏が住時を想像し、大正時代に近いイメージで描かれた、最近の作品です。(学園史料館)

『中村春二肖像画』

中村彝 作
中沢弘光 作

学園が保存する創立者中村春二の肖像画は二点あります。
一点は中村彝画伯の筆で油絵15号のもの(左)、もう一点は中沢弘光画伯の筆による油絵20号のもの(右)です。いずれも 創立者が亡くなった後に描かれ、中村家よりご寄贈いただいたものです。
中村画伯、中沢画伯とも創立者と親交があり、創立者を通じて様々な援助を受けられた美術家であります。(学園史料館)

中村春二筆絵葉書(水彩画)

この絵葉書は、1919(大正8)年7月仙石原にて写生会をされた折のスケッチに水彩をほどこし、小波夫人に宛てたものです。この水彩画は、中村の追悼文集『つきかげ』(十三回忌記念)の中に所載されております。中村の絵画に対する考えの一端が窺えますのでご紹介いたします。

過般箱根仙石にての寫生會の時は黒やセピアをまぜた陰鬱の色の寫生おほくガッカリいたしたり、新しき傾向ならずとも繪はサッパリと(中略)
八月からは少し繪の指導をかへなくてはなるまいと思ひました。気持ちのよい繪がかけてその後に深い繪もよいものゝいきなり意味深長な繪をと志すとどす黒い繪になります。アッサリとこんどは水彩でいたづらしました。明日は一年級への繪はがきをかくつもり(大正八・七・二九)(学園史料館)

中村春二自筆絵葉書(女学校生徒宛)

この絵葉書は1922(大正11)年中村が塩原へ旅行中、投宿先でのスケッチを、教え子(女学校二回生)に宛てたものです。山旅にはいつも絵道具を携帯し、山や川の美しさを切りとるように葉書に画いては、家族や教え子達に数多く送りました。その中の一枚です。川の流れる様の軽妙な筆到、翻せば

「ざーざーと、はゝきがはが ながれている
その たえない ながいをとを
ときどき をさのように よこぎるものは
うつくしい かじかの うた!......」
(後略、原文のまま)

と詩のような文。川の流れる様子が目に浮かび、谷川の岩間に棲む河鹿の声さえ聴こえてくるようで、その音色は画面に色をそえるようです。
水彩画ですが、70数年経たものとは思われぬほど褪色もなく、今も鮮やかな色彩を放っています。加えて、文(詩)が生前提唱、実践された「写音仮名づかい」によることも、年代を近づけているのでしょうか。(学園史料館)

中村春二作 写生画

中村は、中学生の頃より山旅の折々を写画に親しみ、水墨画、水彩画、鉛筆画あるいはクレヨン画など、多くの作品を残しています。学園で保存している数々の遺作の中から一部を常時展示し、創立者の豊かな画才に触れていただいております。(学園史料館)

  • 成蹊学園 史料館
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