所蔵史料紹介

成蹊学園の変遷

-建築物-

学園本館

完成した学園本館への移転式 1924(大正13)年10月20日

正門に面するレンガ造り(貼り)の本館は、1924(大正13)年10月20日に竣工しました。施工した合資会社清水組の工事関係書類の記載によると、構造は「鐵筋混凝土造及鐵骨鐵筋混凝土造參階建 一棟」とあります。
工事の途中で関東大震災の強度な揺れを被りましたが、被害の程度は極めて低く、大きな修整の必要もなく工事は続行されました。1923年10月3日付の、某建築事務所の損壊程度診断報告書に、「......過般ノ震災ニ属スル被害ハ極メテ少ナク震災數日前ニ施工シタル混凝土ノ未タ十分凝結セザル部分ノ小破損ニ止マリ全軆ハ外觀上極メテ安全ノ状態ニ有リ......」(前・後文略)とあることから、明らかです。
左右対称のデザインは整然として美しく、中央に2・3階吹き抜けとなった大講堂があり、演壇の真下には、完成を待たずして没した中村春二の自宅の庭土が埋められています。
正門より玄関へ一直線に続く欅並木と良く調和し、正門から臨むシンメトリーな構図はいつ見ても倦むことはなく、欅の成長の様子で建築年数を推し計ることができます。
ここに今昔の感鮮やかな竣工の日(1924年10月20日)の写真を紹介いたします。(学園史料館)

理化館(旧大学一号館)

竣工したばかりの頃の理化館

正門からけやき並木を抜けた正面のレンガ造り(貼り)の建物は学園本館(1924(大正13)年10月竣工)ですが、その西側にある、本館と同様の外観を持った建物は、1927(昭和2)年4月に竣工した理化館です。この建設に際し、設計の案及び設備品の選定等にあたったのは、旧制高等学校に赴任して間もない、加藤藤吉教授でありました。加藤教授は初等理化教育の構成と実践に力を注ぎ、建物の名称を『理科館』とせず、『理化館』としたのも加藤教授の考えである「尋常科の対象の物理・化学・気象を含め、自然現象をありのままに正しく観察する、実験を中心とした理化教育」によるものです。気象観測に力を入れたのも同じ発想で、理化館前に気象観測所を設け生徒による気象観測を行っていました。気象観測所は高等学校に場所を移しておりますが、観測は現在まで一日も欠測がなく続けられ、各方面に貴重なデータを提供しています。
理化館の外観は今も昔も変わりませんが、内部はかつての面影を残すものは殆どなくなっています。旧制高等学校時代は、1階は物理、2階は生物と地質・鉱物、3階は化学の教室や実験室となっていました。
近年は「理化館」の内部を改造し、大学1号館と呼ばれ講義棟として使用されていましたが、情報図書館新設にともない2004(平成16)年12月20日に惜しまれつつも解体されました。(学園史料館)

トラスコンとトラスコンガーデン

組立作業中の旧制高校生 (写真1)
トラスコンガーデン (写真2)

成蹊学園が池袋より吉祥寺に移転した1924(大正13)年に『トラスコン』(屋内運動場、のちに大学小体育館)は竣工しました。『トラスコン』(通称)の名は、建物の構造をなす鉄骨造りの躯体、屋根および外壁などがTRUSCON STEEL COMPANY(アメリカ・オハイオ州)より輸入された鋼材で建てられたのに由来します。また、鉄骨の枠組みが三角形を基本単位としたTRUSS構造であることが、偶然その呼び名に似ています。
以後68年間多くの学徒等のさまざまな汗が流されました。中でも、戦火激しき1944(昭和19)年6月にはトラスコン内に『三菱電機成蹊工場』が開設、勤労動員された旧制高校の生徒達は授業を半ばに深夜までレシーバーの組立て作業に汗を流しました。(写真1)
戦後は体育館に復活しましたが、1993(平成5)年4月には体育施設としての歴史を閉じ、同年9月、由緒ある構造の骨組みや外壁を生かし、内装を一新し、学生等の憩いの場にと用途を変え、『トラスコンガーデン』としてオープンいたしました。(写真2)
若者の運動による汗だけではなく、労働による汗もしみたことを忘れてはならないでしょう。(学園史料館)

清風荘

現在、中学校と高等学校の校舎が建っている場所は、成蹊学園が吉祥寺に移転する前から、岩崎小弥太氏所有の「岩崎農園」の敷地でありました。この敷地は約一万坪で、松林の中に清風荘という数奇屋づくりの建物があり、菜園、花壇、温室などもあって、岩崎氏の憩いの場となっておりました。岩崎氏は多忙の中でこの清風荘を訪れた折には、茶室で茶の湯をたしなまれ、草木をめで、小鳥の声に耳を傾けることを楽しみにされていました。この農園および清風荘は、1938(昭和13)年に成蹊学園に寄贈されましたが、旧制高等学校時代には、この地に明正学寮(学生寮)が建てられました。
敷地の西側には、1939年鎌倉の岩崎別荘にあった門が移築されましたが、この門は現存しています。現在、清風荘に関しては、上の写真にある門だけが残されており、その他では、南西側の林に当時を忍ぶ名残がわずかに残されています。
門の前は武蔵野市内を走るムーバスの停留所となっています。(学園史料館)

総長邸

解体直前の総長邸

学園の正門より中・高門へ通じる欅並木をカーブした辺りに白い洋館の「総長邸」が建っていました。(1997(平成9)年3月解体)
最後の施設名は「第二集会所」でしたが、「総長邸」の呼称は学園関係者のみならず近隣の方がたに最後まで親しまれました。1928(昭和3)年にアメリカ西海岸に建っていたものをそっくりそのまま移築したもので、構造は壁構造のコロニアル形式の二階建で、玄関を中心に配した典型的な田の字形の間取りでした。
70年の間に、呼び名も使用に応じ三度変わりました。最初は「校長校邸」で浅野孝之旧制高等学校初代校長が8年間住まわれました。1949年より、高柳賢三初代総長が学園公務を行う間滞在されたため「総長邸」と名が変わり、総長退任後は途中増築された和室も合わせ、教職員・父母の様々な集会の場として利用され、「第二集会所」となったのです。円形の小バルコニーを冠した玄関の雰囲気が「総長邸」に相応しく、その名が最後まで親しまれた所以かもしれません。
跡地には、1998年3月、成蹊大学国際交流会館が竣工されました。
また、1927年から1928年にかけて学園内には同じ様式の洋館が他に4棟建てられました。旧制高等学校の成蹊四寮といわれた静専寮(現・小学校の南側)、守之寮(現・第一職員住宅の位置)、操要寮(現・西部室の位置)、有定寮(現・西部室西側)で、後に操要寮は牽引され保健管理センターとして使用されましたが、老朽化のため2000年に解体されました。(学園史料館)

  • 成蹊学園 史料館
  • 〒180-8633
  • 東京都武蔵野市吉祥寺北町3-3-1
  • 開館時間:月曜日~金曜日 9:30~16:30
  • 閉館日:土曜日・日曜日・祝日・学園の定める休業日

※各学校の行事の開催に合わせ、特別開館も行っています。日程につきましては開館カレンダーをご参照ください。