濱家住宅西洋館 〜100年前の寮生活に思いを馳せて〜

皆さんは約100年前、成蹊大学のすぐ近くに学生寮があったことをご存知ですか

吉祥寺の静かな街並みに、ひときわ目立つ色の建物、「濱家住宅西洋館」ります(※正式表記は「濵」)
濱家住宅西洋館は、単なる「古い洋館」ではなく、アメリカから海を渡って日本の地で学生たちの暮らしを支え、そして今も地域の記憶を伝え続ける建物なのです
なぜこの家はアメリカから運ばれ、なぜ吉祥寺に建てられ、そして今日まで守られてきたのか。インタビューしていくなか、その疑問は建物を超えた「人の思い」が明らかになりました。

令和71018日(土)から、令和818日(木)まで、令和7年度第3回企画展「国登録有形文化財 濱家住宅西洋館のあゆみ」が開催されました

今回は企画担当者で、文化財指導員である紺野さんにお話を伺いました。

ぜひ最後までご覧ください!

Q.なぜ、吉祥寺に学生寮として濱家住宅西洋館は建てられたのでしょうか?

A.成蹊学園が池袋にあった時代から、校地内には各学校校舎や農地、運動場のほか、共同生活を重視し寄宿舎が設置されました。池袋から吉祥寺へ移転した際にも教育理念に基づいて、校地内外に寄宿舎が設置されました。そのうちの1つに有定寮(後の濱家住宅西洋館)がありました。

Q.濱家住宅西洋館が建設された当時、このような西洋館の様式の建物は多かったのですか?

A.明治時代には文明開化・欧化政策・鹿鳴館時代などの言葉があるように積極的に西洋の文物を取り入れようとしましたが、西洋風の建物は外国人居留地のあった横浜や神戸、日本人の中でも財閥層の私邸、彼ら(外国人や日本人富裕層)の別荘地などに多く見られたようです。また、近代和風建築が隆盛したため、濱家のような西洋館は庶民の間にはあまり受け入れられて行かなかったものと思われます。

成蹊大学のある吉祥寺北町周辺は、洒落た洋風の住宅も多くみられますが、濱家住宅西洋館が建てられた頃の写真を見ると、農地の真ん中にぽつんと立つ一軒家でした。当時の吉祥寺は江戸時代の雰囲気がまだ残る農村で、五日市街道沿いに江戸時代以来の家並みが連なっている程度でした。

Q.なぜアメリカからわざわざ家を購入(輸入・建設)したのでしょうか?

A. この建物は、三菱合資会社がアメリカから輸入したALADDIN COMPANY社の組立住宅です。成蹊学園の吉祥寺移転のため、本館建設中の1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生しました。復興事業のため国内での建築資材調達が難しいことからアメリカから輸入されたようです。

また、成蹊学園本館は近代的なデザインで建設されています。屋内運動場(現在のトランスコンガーデン)は、アメリカから輸入された鋼材で建設された鉄骨造の建物です。当時最先端の教育環境を備えた建物で最先端の教育を実践するという、成蹊の教育方針を示しているようです。

Q.濱家住宅西洋館は組立式でできていますが、どの程度造られた上で建てられたのでしょうか?

A.濱家住宅西洋館は、 ALADDIN COMPANYの組立住宅カタログに掲載されている商品です。カタログの説明によれば、建物のモデルを選び注文すると、建築資材と図面の組み立てキットが輸送されてくる商品で、資材到着後はDIYもしくは大工に依頼して建設したようです。2013年(平成25年)濱家住宅西洋館の修復工事において、建物の補強のために筋交いが入っていることから、日本の大工が施工したと考えられます。

Q.外装がかなり特徴的な色ですが、なぜこの色になったのでしょうか?

A.旧所有者の濱さんの好きなモスグリーン色で補修工事を行ったと伺いました。

古い壁材のペンキのはがれた部分を観察すると、チョコレート色、ベージュ色、モスグリーン色の変遷があったことが分かっています。

Q.数十年建物を維持するために平成25年(2013)に建物の減築、曳家(建造物を解体せず、全体をそのままジャッキなどで持ち上げて別の場所に移動させる工法)を行い、オリジナルの形に近い状態にする補修工事を行っていますが、それによって何が変更されましたか?

A.長年にわたって増改築された部分を解体除去(一部残置改修)して建築当初に近い状態に戻し、水回りの更新、外壁の下見板は全面張替え、その他腐朽、破損部分の改修、天井や内壁の塗装などを実施しました。また、曳家の際は多くの地域の方々に見守られて行われました。

【取材班が思うこと】

〜家の持ち主であった濱さんとはどんな人だったのでしょうか〜

この記事を書くにあたって資料を見たり、インタビューをしていく中で浮かび上がってきたことがありました。

それはこの家、そして地域の人々とのつながりを想う濱さんや人々の想いです。生前、濱さんは近所や地域の方を家に招いて交流をしていたそうです。

〜約100年前、ここで暮らしていた成蹊生はどのような暮らしをしていたのでしょうか〜

当時の学生達の暮らしぶりについては成蹊学園資料館所蔵資料等で調べられる資料がほとんどないため、正確な暮らしの様子は分かっていません。しかし、館内を歩いていると、ふと、ここで生活していた学生たちの姿が頭に浮かんできます。

朝、まだ人通りの少ない吉祥寺の農道を歩き、学園へ向かう学生。寮に戻れば、木の床がきしむ音とともに、仲間の気配が自然と伝わってきます。今のようにスマートフォンやインターネットはなく、情報を得る手段は限られていましたが、その分、人と人との距離は近かったのではないでしょうか。

西洋風の建物に住みながらも、周囲には農地が広がる風景。そのギャップは、当時の学生たちにとって新鮮で、少し誇らしいものだったかもしれません。一方で、慣れない洋風の生活や共同生活に戸惑いを感じることも少なからずあったはずのではないでしょうか。食事の時間、勉強の合間の談笑、夜遅くまで語り合った将来の夢——そうした日常の積み重ねが、この建物の中で確かに営まれていたように考えられます。

濱家住宅西洋館は、ただ寝泊まりする場所ではなく、学生たちが価値観を共有し、人として成長していくための「学びの場」でもあったのではないでしょうか。ここで過ごした時間や経験は、卒業後もそれぞれの人生のどこかで、静かに息づいていたのかもしれません。

100年という時を経て、正確な資料が残されていないため、私達はその暮らしを直接知ることはできません。しかし、この建物に残された空間や素材、そして語り継がれてきた記憶をたどることで、当時の成蹊生たちの息遣いを、ほんの少しだけ感じ取ることができるような気がします。


今回は、濱家住宅西洋館を紹介しました。いかがでしたか?

改修は行われているものの、この吉祥寺の地に国の有形文化財として登録され、現在まで多くの人に愛されてきたことがよく分かります。これは、地域の人々との交流を大事にしてきた旧所有者である濱さんの人柄が生んだ結果なのだと感じられます。実際に、現在ではこの建物の維持をするための掃除等を2週間に1回のペースで行っており、また建物に隣接する公園は地元の人達によって定期的に維持管理されているそうです。

今回の取材にあたって、文化指導員の紺野さんをはじめとする担当者の方々にご協力いただきました。

お話を伺う中で、紺野さん達自身も濱さんを尊敬して、意志を引き継ぎ、この建物を大切に残していきたいという想いがひしひしと感じられました。

今回、読んでいる皆さんにその想いが少しでも伝わっていたら嬉しいです!

取材に協力いただいた皆様、本当にありがとうございました!

また、学生広報委員会の活動について知りたい方はこちらのリンクからどうぞ!   

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担当/松尾・石井

撮影/宮崎