社会発信

エッセイ

第4回
「『人間中心の社会』としてのSociety 5.0」


Society 5.0研究所所長 佐藤義明

1.はじめに
 国は、構築しようとするSociety 5.0を、単にIOT(モノのインターネット)が発展した社会ではなく、「人間中心の社会」であるとする。すなわち、新しい技術を活用できない/しない人を取り残さないことが、Society 5.0の条件であるとするのである。今回は、私の最近の失敗を紹介し、この課題を考える機会としたい。

2.Society 5.0で取り残されうる者
 先日、新幹線と在来線を乗り継いで東京から約3時間の町に人を訪ねた。約束の場所は、その町のスマート・シティ化を推進している複数の企業が入居する建物内のオフィスであった。私の失敗は、スマホを充電器にかけたまま自宅に置き忘れたことである。ラインも利用していない私は、新幹線に乗車するまでスマホを見ようとすることもなかった。
 訪れた建物は、数年前に竣工したもので、セキュリティのために身分証明書がないと入れないようになっており、入口にはインターホンのようにみえるタッチパネルがあった。訪問先の企業の名前を押すと、「応答がありません」という一行と、訪問先の電話番号が表示されるばかりであった。何度押しても結果は同じであった。
 そこで、入口の傍にある管理室に人がいたので、その戸を叩いて、事情を話した。管理人は、「表示される番号に電話すれば?」と言い、私がスマホを持参していないことを伝えると、公衆電話に行けばよいと言い、最寄りの公衆電話の場所を教えることもなく、そそくさと管理室へと戻った。
 途方に暮れた私は、同じ敷地にあるカフェに駆け込み、事情を話した。出てきた店員は、公衆電話は徒歩10分の距離にあると言って、困惑した顔をした。外はあいにく雪が降り積もり、私は履いてきた雪用ブーツを革靴に履き替えていた。少しの間の後、その店員は笑顔になり、親切にも、私の訪問先に電話をしてくれた。そこで、私はようやく建物に入ることができた。
 私は、スマホを忘れ、多くの人に迷惑をかけたことを反省した。それと同時に、スマホをもたないことでいわば「弱者」となったこの経験は、果たしてSociety 5.0が、全ての者を「強者」にする技術の開発を目指すのか、それとも、「弱者」の存在も許容するシステムの構築を目指すのか、という問題について考えを巡らすきっかけとなった。

3.全ての者を「強者」にする技術の開発
 スマホは、携帯を忘れるというヒューマン=エラーがありうるシステムである。「過つは人の常(Errare humanum est)」である。「携帯せよ、さもなければ懲戒する」という規範を立てても、不携帯を減らすことはできても、完全に無くすことはできない。不携帯に懲戒を科しても、抑止効果よりも、不携帯で生じる不経済の悪化による損失の方が大きいかもしれない。
 スマホの機能がSociety 5.0を生きる人間に不可欠ならば、それをヒューマン=エラーの存在しえないシステムにするしかない。そのためには、機器は手に持ったり身に着けたりするのではなく、愛玩動物にチップの埋め込みを義務化したように、身体に埋め込まれるべきことになる。これは、スマホを身体に埋め込んだ≪一種の≫サイボーグへと人間を進化させるという手段である。
 この手段は人間の能力拡張(エンハンスメント)と呼ばれる。技術の進化によって、パラリンピアン(「装具」を身体の一部とする身体障がい者)は、オリンピアンを越えうると指摘されるように、能力拡張は「自然な」能力を越えうる。装具に限らず、エキシマレーザー角膜屈折矯正手術(レーシック)は視力を拡張し、「遺伝子ドーピング」も持久力などを拡張しうる。
 スマホを携帯することがいつの間にか期待されるようになったように、Society 5.0においては、さらなる能力拡張が期待されるようになるかもしれない。その社会は、ヒューマン=エラーを消去するシステムの構築を追求し、過失のありうる人間の自由もプライバシーも消去しようとするであろう。そこで問題となるのは、もっぱら製造物責任のみである。

4.「弱者」の存在を許容するシステムの構築
 人間の能力も能力拡張の志向も千差万別であるという前提で、人間に自由(自己決定)を認めようとすれば、一方で、社会が期待する≪最低限度の≫能力拡張や自己研鑽を個人に負担させつつ、他方で、当該負担を果たしている者については、能力の「不足」やヒューマン=エラーを許容し、支援や安全装置(フェイル=セーフ)を提供するシステムを構築するしかないであろう。
 たしかに、能力の「不足」とヒューマン=エラーを同列に扱うことには違和感があるであろう。しかし、ヒューマン=エラーが能力の「不足」の現れにほかならず、非難ではなく安全装置の構築で対応されるべきものであるとする立場は、近年の事故調査――関係者を免責し、ヒューマン=エラーの原因(となるシステムの欠陥)の解明に注力する――のとるところである。
 私の経験が示唆するのは、Society 5.0においても、人が支援や安全装置として重要であろうということである。管理人が内線電話で私の訪問先を呼び出せば、建物のシステムにとって最後の安全装置となっただろうからである。そのために必要なのは、自己の職務を機械的に果たすに止まらず、自己の権限をシステムの目的に照らして創造的に行使する士気(モラール)である。
 私は、イタリアの小さな町で、スマホが使えない状況で道に迷ったとき、対照的な経験をしている。郵便局の窓口で道を尋ねたところ、局員はイタリア語と身振りで懸命に教えてくれた。私はイタリア語を解さなかったが、「丘の上」という意味は汲み取れた。困っている人を助けようとするホスピタリティは観光システムの大切な安全装置であるといえないであろうか。

5.おわりに
 コミュニケーションに必要な機器をもたない私は人に救われた。「人間中心の社会」を目指すSociety 5.0が想定する人間が「弱者」を含むとすれば、「弱者」を想定したユーザー=インターフェースの開発などが必要であるとともに、「弱者」を支援し、安全装置となるホスピタリティを発揮する人々のモラールを涵養することも不可欠であるかもしれない。
 私が参加している日本学術会議の「IT社会と法」分科会では、取り残される人がいない「IT社会」の構築に向けて議論がなされている。取り残された「弱者」となった経験は、「弱者」を排除しないインクルーシブな社会の構築という課題を、他人事としてではなく自分事として追究する機会となった。