社会発信

エッセイ

第2回
「過去と未来――ロシアによるウクライナ侵攻をめぐって」


Society 5.0研究所所長 佐藤義明

  • 1.はじめに
  •  ヴァーチャル空間とフィジカル空間が融合するなかで、人々が認識する「現実」とフィジカル空間における現実の隔たりは拡大している。すなわち、個人の先入観とそれに基づいてアクセスするヴァーチャル空間に偏在する情報から作り上げられるパーセプション(認識)が「現実」を構成し、現実と遊離したものとなることが多くなっているのである。このことは、ロシアによるウクライナ侵攻を考える1つの視座を与えてくれる。
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  • 2.過去になっていない過去
  •  ウクライナはロシアを「ナチス」と重ね合わせようとしている。それと同じく、ロシアもウクライナの政権を「ナチス」と呼んでいる。両者が相手を「ナチス」であると信じているならば、第2次世界大戦のときの連合国と同じように、その「戦争」は「正戦」であり、妥協による停戦や平和を図ることなく、相手を完全に服従させるまで遂行されるべきものとなる。この戦争は、第2次世界大戦の姿がヴァーチャル空間で増幅された形で立ち現れるものになるのである。
  •  これに対して、両国にとって、相手に「ナチス」というレッテルを貼ることが、国内と世界の世論の支持を得るためのレトリックにすぎないと自認されている場合には、「現実」はその背後にあることになる。そうであるとすれば、この「現実」を知ることは、この紛争を理解するために不可欠となる。私見によれば、ロシアにとっては、第2次世界大戦の後で「鉄のカーテン」によって画定されたソ連の勢力圏をどこまで失うか、裏返していえば、潜在的ライバルの勢力圏がロシアの近くにどこまで迫るか、という地政学的認識こそが「現実」であると考えられる。
  •  この認識は理解できないものではない。例えば、『国際条約集』は2003年版以来、当事国表の区分として「ヨーロッパ」と「ロシア連邦その他のCIS[独立国家共同体]諸国」を採用し、2022年版に至っても、ジョージア(2009年CIS脱退)およびウクライナ(2018年CIS脱退に関する大統領令署名)を後者に含めている(1994年版から2002年版までは「NIS[新独立国]諸国」、1993年版は「CIS諸国等」)。1992年版以前は「東ヨーロッパ」に含められていたポーランド等は、1993年版以降は「ヨーロッパ」に含められているが(現在、NATOには旧「東ヨーロッパ」の13か国が、EUには同11か国が加盟)、ウクライナ等はCIS脱退の後もロシアと同じ区分に含められるという認識が日本で刊行されている『国際条約集』にもあるのである。
  •  ロシアにとって、この2か国がロシア等の枠組からヨーロッパに移されることは、第2次世界大戦の後で確立したにもかかわらず、近年掘り崩されてきた地政学的現状の最後の局面であり、それらをみずからの勢力圏に引き留めることは、最後の一線であるようにみえる。このことは、第2次世界大戦の戦勝国の間で締結された連合国憲章(国連憲章)の下で、安全保障理事会常任理事国として拒否権をもつ特権的地位を確保している国として、当然の権利であるとみなされているようである。
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  • 3.実現しつつある未来
  •  しかし、国連憲章が第2次世界大戦直後の勢力圏の維持を第1の目的としているという解釈は、拒否権の制度にもかかわらず、その全体構造に照らせば、説得力の高いものではない。国連憲章はその目的として、平和の維持に加えて、「人民の同権及び自決の原則の尊重」と人権及び基本的自由の尊重を挙げている。それゆえ、それはもともと、第2次世界大戦直後の秩序を固定し、保障するというよりも、実現するべき未来への青写真として人民の自決による秩序を想定していると考えることができるからである。
  •  人民の自決の原則の下で、ある国が他の国に友好関係を維持/構築してもらいたい場合には、相手国の国益を確保/増進しうる国であると認識させるか、魅力的な文化をもつ国であると認識させるソフトパワーを及ぼし、自発的な協力を引き出すかする必要がある。
  •  たしかに、民主的な支持を得ていない独裁者が、人民が変更しようとしている現状を維持したり、人民が維持しようとしている現状を変更したりするために武力を行使する国を友好国として選択することがないわけではない。しかし、現行国際法に挑戦するために武力紛争を引き起こすことをいとわない国民は多くないであろう。武力紛争を起こした場合に被害を受ける可能性は、独裁者よりも国民の方が圧倒的に高いからである。多くの国の国民は、自国が政治的・経済的に強い国となり、大国として一目置かれることを望むと同時に、そのような国となる手段としては武力行使ではなく、法の支配という理念に基づく平和と、人権と自由な生活の保障を選択するのではないだろうか。
  •  ロシアがウクライナをその「勢力圏」に維持しようと欲するならば、ウクライナ国民(ロシア系を含む)が自己決定によってそうするように、それが国益に合致すると認識させたり、ロシアの社会がウクライナの社会を構築するモデルとなるような魅力をもつと認識させたりすることによって、そうする必要があったと考えられる。そのためには、過去の栄光を維持・再現させようとするのではなく、現在を魅力あるものにすると同時に、魅力ある未来のヴィジョンを提示することが課題となるはずである。
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  • 4.おわりに
  •  未来の主要な兵器はプロパガンダであるといわれてきた。今回の侵攻に関わる報道も、すべてがプロパガンダであるかもしれない。しかし、情報の検証が不可能で、情報の信頼性が発信者に対する信頼(trust)に依拠して判断される状況は、情報統制力の強い独裁的国家よりも、報道の自由を相対的に保障している民主的国家の魅力が高まる。民主的国家がそのヴィジョンに忠実であれば、それが勝ち残る可能性は高まるといえよう。