社会発信

エッセイ

第1回
「Society 7.0から見るSociety 5.0」


Society 5.0研究所所長 佐藤義明

  • 1.はじめに
  •  生まれつつある「サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステム」が用いられる社会は、従来の社会と質的に異なる社会であり、Society 5.0と呼ぶべきものであるといわれている。政府は、この社会を「経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の社会」にすることを課題と位置づけており、成蹊大学Society 5.0研究所もこの課題に取り組んでいる。 この課題に取り組むときに忘れてはならないことは、Society 5.0はおそらく人間社会の最終形態ではなく、次の社会に移行する1つの過程であると考えられることである。どのようなものになるにせよ、Society 5.0の次にSociety 6.0以降の社会が存在しないと考える理由は見当たらない。Society 5.0が生まれつつあるときにSociety 6.0以降を予測することは困難である。しかし、ここではあえてSociety 6.0からSociety 7.0までの道のりを想像してみたい。
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  • 2.Society 6.0
  •  Society 5.0は、一部の国では、経済発展を促進しながら「人間中心の社会」という理念にそぐわない方向に向かっていくかもしれない。すなわち、ジョージ・オーウェルの『1984年』で描かれた社会への方向である。しかし、『1984年』の社会は、構成員の意思に反して、強制的に秩序を維持しようとする世界であることから、それに対する抵抗も強く、安定した社会として永続することは困難であろう。人間は自由を希求する本能を持っているようにみえる。 そこで、Society 6.0と呼びうる社会は、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』で描かれたような社会になるのではないだろうか。ハクスリーは、その社会を『1984年』の社会よりも進化した世界であるとしている。というのも、そこでは、人々は自発的に秩序に従うように成育させられていることから、どの階級に属していても十分満足させられており、秩序に抵抗しようとする動機があらかじめ摘み取られているからである。 しかし、『すばらしい新世界』が描くAC(イエス生誕後)2540年--そのときにはAF(ヘンリー・フォードが大衆車の製造を開始した1908年の後)632年と呼ばれている--の社会もおそらく人間社会の最終形態ではなさそうである。その社会を統治するのは人間(世界統制官)であり、そこでは「野蛮人居留地」で育った「野蛮人」による「抵抗」もありうるからである。人間が統治するかぎり、自由を求める被治者による「抵抗」を完全に抑えることはできないかもしれないのである。
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  • 3.Society 7.0
  •  Society 7.0がありうるとすると、ハクスリーも想像していなかった人工知能(AI)がそれを創造する可能性がある。人工知能が人間の意思に反する行動をとるときに人間がそれを停止する権限をもつ(いわゆる"Human-in-the loop")、または、その権限をもたなくても(いわゆる"Human-out-of-the loop")AIを破壊するなどして停止させる力をもつ社会は、Society 6.5と呼ぶことができる。人間がAIを統制しうるかぎり、AIは道具に留まり、Society 6.0と異質ではないといえるからである。 それに対して、人間が人工知能を統制する能力を失った社会をSociety 7.0と呼ぶことができるだろう。いわゆるシンギュラリティを超えて、汎用人工知能(AGI)が人間に統制されるのではなく人間を統制する力を得た社会である。もっとも、現在、2045年にシンギュラリティに達するとする予測はほとんど支持されておらず、それがありうるとしても、かなり遠い未来であると考えられている。また、Society 7.0がユートピアになるか、ディストピアになるかも想像を超えている。
  •  Society 7.0が人間にとってユートピアになると考えることもできる。AGIは、人間の欲望を完全に満足させることと、他のすべての生物を含む地球さらに宇宙の利益を確保することを両立させるほど賢明であるかもしれない。AGIは、人間の欲望を労働であれ娯楽であれ無害な方向に向け、戦争や環境問題を存在しないものとするに違いない。AGIの制御の下で、主観的にはすべての人間が「従心」(孔子)の境地に到達するはずである。 逆に、Society 7.0は人間にとってディストピアになるかもしれない。AGIは、欲望に支配された人間は地球および宇宙に危害を及ぼす生物であると判断し、生態系から人間を排除するか(人間が存在しない世界ならばディストピアと呼ぶ必要もなくなる)、そうしないまでも、『すばらしい新世界』以上に人間の自由を奪い、自由という観念も存在しない社会とするか(奪われたという意識がなければディストピアと感じないかもしれない)、いずれかになると考えられる。
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  • 4.おわりに
  •  Society 5.0がSociety 6.0への過程であるためには持続可能性のある社会でなければならない。Society 5.0の段階で戦争や気候変動の放置などによって、地球が人間の生存できない世界になってしまうと、その先の世界は存在しえない。持続可能な開発目標(SDGs)は、Society 5.0を人間の住みやすい世界にする目標であると同時に、Society 6.0に至る可能性を残すための目標でもあるといえるであろう。我われが課題に向き合うことは、次の世代への責務でもある。