SPECIAL INTERVIEWvol.92

Special Interview 蹊を成す人
建築家 坂 茂

建築家坂 茂


時代に流されない仕事を、
続けていきたい。


小学校から高校まで成蹊学園で学ばれ、2014年、建築界のノーベル賞ともいわれるプリツカー賞を受賞された 坂 茂 氏。世界を舞台に二十年以上にわたって展開されている社会貢献や、成蹊での思い出などについてうかがいました。

プロフィール:
1957年生まれ。小学校から成蹊学園で学び、成蹊高等学校を卒業後、南カリフォルニア建築大学に留学。84年クーパー・ユニオン建築学部(ニューヨーク)卒業。85年坂茂建築設計設立。現在、京都造形芸術大学教授も務める。主な作品に、ハノーバー万博 日本館、ポンピドゥーセンター・メスなど。毎日芸術賞、プリツカー建築賞、朝日賞、フランス芸術文化勲章など、受賞多数。94年、ルワンダ難民キャンプを皮切りに世界各地で災害支援プロジェクトを続けている。

「勉強」だけじゃない成蹊教育が、今の自分を作った。

「勉強」だけじゃない成蹊教育が、今の自分を作った。

プリツカー賞受賞、おめでとうございます。受賞された時のお気持ちをお聞かせ願えますか。

受賞の知らせを受けた時はまったく信じられなかったですね。僕は以前、この賞の審査委員をやったので、この賞に選ばれる大変さをよく知っていましたから。 また歴代の受賞者は優秀で著名な建築家ばかり。自分はまだまだ彼らの域に達していないと思っているので、本当に驚きました。
審査のエグゼクティブ・ディレクターと話したのですが、今回の審査にあたって「メッセージ性のある選考をしよう」という話し合いがもたれていたそうです。作品に対する評価はもちろんのこと、二十年にわたる社会貢献活動、建築家の社会的役割を広げたということも併せ、今回の受賞に至ったと聞きました。

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小学校、中学、高校と成蹊学園で過ごされていらっしゃいますが、どのような生徒さんだったのですか。

僕は小学生の時から美術と体育が好き。他の科目の成績が良くないのをこの二つでカバーしていたようなものです(笑)。中学にあがった時に一人ひとり本格的な大工道具セットを持たされましたが、これが本当にうれしくて。本棚や椅子などを作りました。建築家になるきっかけになったのも、中学の時の技術の授業なんです。夏休みの宿題で、自分の家を設計して模型を作製するというものがありました。実に楽しくて、いろいろ工夫を凝らしました。庭の木をスイッチにして家の明かりが灯るようにしたり。休み明けに提出したら、優秀作として学校に展示されました。
運動はというと、小学校の時からラグビーをやっていました。高校二年の時には全国大会に出場することもできましたが、一回戦で強豪とあたり惨敗してしまいました。
成蹊学園に通い、素晴らしい先生方に恵まれたことは大きな財産です。画一的な教え方ではなく、生徒一人ひとりの個性に合わせた教育でした。そして、いわゆるお勉強だけでなく、様々なものに興味を持たせてくれた。だからこそ、今の自分があるんだと思います。

坂さんは成蹊学園でも情報図書館や小学校校舎の設計を手がけておられます。
母校の仕事をするにあたって何か特別な思いはございましたか。

学校の施設というものは生徒や学生が一日中勉強したり遊んだりする場所であり、公共施設の中でもことさらに重要な建築だと思っています。
また成蹊小学校に通っていたので、小学校の新校舎には特に思い入れがありました。低学年の校舎は平屋で、教室の裏手にクラスごとに大きなテラスがあったんです。短い休み時間であろうとそこに飛び出し、皆で遊んだ。その思い出は、新校舎を設計する際のヒントになりました。3階建となるとグラウンドまで出るのがどうしても億劫になり教室にこもってしまう。それは良くないと思いまして、当時のテラスを複層建築で実現できないかと考えたのです。高学年の校舎は木造で木のあたたかみがある楽しい空間。私の記憶に鮮明に残っている成蹊小学校の良さを再構築したものが、今の校舎と言えるでしょう。
情報図書館は、学生がもっと利用したくなる図書館を作る、ということが出発点でした。そこで、仲間とおしゃべりや飲食ができるゾーンを作り、そして中に進むほど静かに本を読んだり勉強したりできるゾーンになるようにしました。またグループでディスカッションできる独立したゾーンとなっているのが、あの宙に浮かせた球体状のプラネットです。
もうひとつ配慮したのは、中からの眺めです。成蹊学園の素晴らしい財産であるケヤキなどの緑。この美しい景観がどこからでも見られ、読書や勉強で目が疲れた時にも癒しになるよう設計しました。また、外観は学園本館の設計に採用された黄金比を研究し、レンガ張りのイメージを踏襲した上で全体の調和を図っています。

世の中のために、建築家として何ができるか。

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東日本大震災、クライストチャーチの震災をはじめ、坂さんは国内外で多くの社会的活動をされていらっしゃいます。

建築家というのは社会性がありそうな職業で、実は必ずしもそうではない。歴史的に見ても建築家の顧客は特権階級の人々。財力や権力は目に見えないから、それをモニュメンタルな建物で示すために建築家を使う。一般の人々の生活を改善するため、あるいは自然災害で家を失った人たちのための仕事ではない。でも考えてみると、地震そのもので人が亡くなったり怪我をしたりする訳ではなく、建物が崩れ人を傷つけるわけです。これはある意味、建築家の責任でもあるのに、私は何も手を差し伸べていない。
また国が作るような避難所や仮設住宅は快適性やプライバシー、美観などは十分に考慮されていません。災害を受け精神的にも肉体的にも大変な思いをしている人たちにこそ、居心地の良さが必要なんだと私は思う。そこに建築家が加わることでより良いものが作れるのではないかと考え、災害支援の活動を始めたんです。
今、力を入れているのは、コストアップをせずにもっとレベルの高い仮設住宅を供給する仕組みづくりです。グローバルな世の中では、ひとつの問題を日本だけで解決することはできません。そこで仮設住宅の工場を途上国に造っています。現地での雇用を創出しつつ、普段はスラムなどの住宅事情の改善に貢献する。そして、いざという時にはパネル化した住宅を被災地へ運ぶ。これは災害支援と途上国支援を併せ持つ、新しいタイプの活動だと思います。
次の災害に前もって備えておくことは重要で、それは資材だけでなく、支援しやすい環境づくりにも言えます。例えば、避難所でプライバシーを守るための間仕切りなどは前例がないとなかなか受け入れてもらえない。そこで、僕は学生を連れて市町村を回り、防災の日にデモンストレーションをして、災害があった時、間仕切りをすぐに施工できるよう役所と防災協定を結ぶ活動をしています。これももっと全国に広げていきたいですね。

世界中を駆け回る坂さんですが、高校卒業後すぐにアメリカ留学という選択をされています。
単身で海外へ渡ることに迷いはありませんでしたか。

まったくなかったです。高校時代から海外に出たいという気持ちが強く、オーストラリアの学校との交換留学制度にも応募しています。でも、英語の成績が悪くて選ばれず、とても悔しい思いをしたことを覚えています。また、母が服飾デザイナーをやっていて、仕事でよくパリやミラノに出かけていました。そんな姿をそばで見ていたからでしょうか、自分も海外で学びたいと常々思っていました。

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海外留学をしてご自身に何か変化はありましたか。

最初は英語もできないし、知り合いもいない。高校までは親に守られ、敷かれた線路を歩めばよかったのですが、海外ではすべて自分自身で新しい線路を敷かなくてはならなくなりました。だからこそ今のように世界中で仕事ができるようになったのだと思います。
思わぬアクシデントもいろいろありました。例えば、現地で中古車を買ったのですが、雨でスリップして車が半回転するような事故を起こしてしまった。幸い人にも自分にも怪我はなかったのですが、車はダメになり、近所の家に駆け込んで拙い英語で車を運んでもらうよう頼みました。しばらくはショックが大きかったです。原因は片方のタイヤが磨り減っていたからだと分かった後、もしこの事故を高速道路で起こしていたら大惨事につながっていたんじゃないか、誰も傷つけることなく済んだのは運が良かったんじゃないかと思い始めました。それからですね、何が起こってもそれは自分にとって良いことなんだと、すべて楽観的に思えるようになりました。一人きりの海外暮らしで学んだ中でも、これは大きな収穫だったと思っています。

自分の道を切り拓くのは、自分自身。

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海外の教育に触れられてきた体験から、今の日本の学生たちに伝えたいこと、アドバイスしたいことはございますか。

海外と比べて日本の学生は甘いと思います。授業をサボる学生なんて、海外ではあり得ない。また、大学が就職の支援まで行ったりしますが、日本の社会は過保護だと思う。少なくともアメリカでは、学生は学業に励み、自分の道を自分で切り開いていくというのが普通です。日本の学生は世界レベルで自分たちを見つめるべきです。
今は優れた製品を作って輸出すればいいなんて時代ではなく、人が世界に出て行かないと仕事がとれない時代。それなのに留学する学生の数はどんどん減っていて危機感を覚えます。日本の居心地が良すぎてリスクを冒したくないのかもしれませんが、若者がもっと積極的に世界に出て行くようにならないと日本の将来はないと思います。

お仕事においてこれからチャレンジしていきたいことはございますか。

規模や予算に関わらず、後に残るようないい仕事を着実にやっていきたいだけです。どんな建築が「パーマネント」で、どんな建築が「仮設」なのか。コンクリートのビルも地震で壊れますし、商業建築なんかは数十年もすれば次のものに作り替えられていく。そういうものは「仮設」なんです。一方、僕が神戸で造った「紙の教会」は台湾に移設され今も使われ続けていますが、たとえ紙で作った建物であっても人々に愛されれば「パーマネント」に成り得るのです。

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多忙な坂さんですが、お休みはどのように過ごされていますか。

僕は仕事しかしていませんので(笑)。休日もありませんし、休みたいとも思いません。仕事で世界中を旅して、おいしいものを食べて、おいしいワインを飲んでいるだけです。もちろん大変なこともいっぱいありますが、好きなことをやっているのでストレスはたまりません。世界には素晴らしい人や文化との出会いがたくさんあります。


最後に、成蹊学園の後輩たちへメッセージをお願いいたします。

繰り返しになりますが、若い人たちにはどんどん海外に出て行って欲しいです。特に大学生はバックパック背負って貧乏旅行でもして来たらいい。外に出ることによって視野が広がり今の勉強にも生きてくるし、また世界を知ることで日本の良さを再発見することにもつながっていくと思います。

WORKS OF SHIGERU BAN

坂茂氏は、2014年にプリツカー賞を受賞されました。

選考では、自然災害などで被災し家を失った人々に対して自発的な活動を展開していることが評価されています。数多くの災害支援プロジェクトは、「坂茂建築設計」のホームページよりご覧いただけます。

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