成蹊の歴史と成り立ち

学園の歴史と沿革―黎明期の成蹊学園― 創立以来、 個性と自由を大切にする人間教育が脈々と受け継がれています。

成蹊学園の創立者中村春二は、自らの理想とする教育を実現するべく、学生塾「成蹊園」を開塾しました。以来、明治、大正、昭和、平成と、日本が大きく変貌を遂げるなか、「個性尊重の人格教育」を貫き、現在もその精神は成蹊スピリットとして受け継がれています。小学校から大学までを擁する総合学園として発展を続ける成蹊。その礎は一人の人間の理想と、二人の親友の協力から始まったのです。

日本の教育制度が整い始めた時期に出会い、共に学んだ三人。

中村春二という青年教育家の熱い志から始まった成蹊学園。その発展に欠かせない存在が岩崎小弥太と今村繁三の二人です。
彼らが少・青年期を過ごした明治時代は、急激に西洋化が進んだ時代であり、教育の分野でも、学制、教育令、小学校令などの制定により、日本の義務教育制度は短期間のうちに確立されていきました。
このような時代背景の中、中学を卒業した中村と岩崎は第一高等学校に、今村は渡英しリース校に進学します。当時は日清戦争後の国家主義が台頭していた時代です。その一方、世界の思想界・教育界に個人主義・自由主義が花開いた時代でもありました。一高生はこの国家主義と自由主義のはざまで哲学に関心を寄せ、同時に領土拡張や利権争奪をめぐる列強の対立抗争に反発して、世界の平和や人類の共存共栄を希求するようになっていったのです。平和思想はその後の中村春二の思想的基盤ともなりました。

個性と自由を尊重した人間教育を行う成蹊園。

第一高等学校を卒業したのち、中村は東京帝国大学(現在の東京大学)文科大学国文学科を経て教育界に身を投じます。一方、三菱の後継者であった岩崎は渡英、すでに渡英していた今村銀行の跡継ぎであった今村と、ケンブリッジ大学に留学し、英国の文化に触れるとともに、歴史、経済、社会など幅広い学問を学びました。当時、中村宛の手紙で岩崎は次のように書いたといわれています。「英国の学校教育は、個性を尊重し、自由なる雰囲気により行はれ居り候。これに反し、日本の学生が教科書の詰込主義に毒され、自主的精神を喪失し居る現状に比するに、誠に羨ましき限りと存じ候」。このような英国の教育に触れるうち、今村と岩崎は日本にもそうした教育機関が必要であると痛感するに至ったのです。
日本で教育にたずさわってきた中村は、日露戦争開戦が近づくなか、日本の教育が人間の個性を無視した画一教育に陥っている現実に直面していました。これでは真の人間教育はなしえないと考えた中村は、自由な立場で真の人間教育を行いたいとの思いを日増しに強めていったのです。そこで1906(明治39)年、本郷西片町に学生塾を開塾し、翌年「成蹊園」と名付けました。この成蹊園の開塾を機に、今村と岩崎は、中村の個人主義と自由主義を基礎にすえた人間教育に共鳴し、有形無形の援助をしていくようになります。

教育こそが社会を変える-成蹊実務学校、創立。

中村春二が、中学教師などの体験を通して成蹊園で実践したいと考えたのは、「生きるとはどういうことか」を塾生たちに自ら会得させることでした。そのため中村は常に塾生たちの先頭に立ち、自ら全存在で生き方を示そうとしました。まさに人間教育の原形がここにあったというべきでしょう。
この成蹊園を土台に、中村は24時間学生と接することのできる全寮制の学校を起こすべきだと考えるようになりました。中村は、中学を卒業して高等専門学校に進学する希望を持ちながらも、学資に窮している有為の人材を選び、これを対象として無月謝の学校をつくることこそ本道であると主張し、1912(明治45)年、創立者を中村春二、賛助員を岩崎小弥太と今村繁三とし、池袋に成蹊実務学校を創立しました。長年理想として思い描いてきた学校が、いよいよ実現する運びとなったのです。
設立趣意書には教育こそが社会を変えうる力であると述べられ、「無月謝、教科書貸与」、「定員1学年25名」、「活きた学問の指導」、「道徳の実践」などの特色を打ち出し、科目ではとくに数学と英語を重視。在学中に英字新聞が読め手紙が書けること、英語で外国人と会話できることが目標とされました。この時すでに成蹊では、少人数制の国際化を視野に入れた人間教育がなされていたのです。

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