中村春二を知る

池袋に開校した5つの学校

池袋に開校した5つの学校

池袋に5校を次々と開校

池袋校地の様子
財団法人成蹊学園を設立(1919年)
財団法人成蹊学園を設立(1919年)
前列中央に中村春二

中村春二が教育の場に選んだのは池袋の地だった。当時は一面の麦畑が広がっていたが、山手線が開通し、池袋駅も開業していた。学校が増えるにつれ、校地も広がった。

池袋の校地は、高低のある地形に小川が流れ、池もあった。多くの樹木が植栽され、1921年の調査によると構内の樹木数は9000本余を数えた。生徒たちの手によって池の掻堀りや校内の整備がなされ、「成蹊村」が完成した。

女学校は池袋から1.5㎞ほど離れた目白上り屋敷にあった。

池袋の成蹊学園校地図(1919年)
池袋の成蹊学園校地図(1919年)
『成蹊学園百年史』より
目白の成蹊女学校校地図(1919年)
目白の成蹊女学校校地図(1919年)
『成蹊学園六十年史』より
成蹊実務学校 第1回入学生(1912年)
成蹊実務学校 第1回入学生(1912年)
最後列の中央に中村春二

成蹊実務学校 1912年創立

中村は実務学校設立の目的を、小学校卒業後に上級学校への進学希望を持ちながらも学資に窮した家庭の子弟に就学の途を与え「国家の中堅となる有為な人物」を育成することであるとした。「無月謝、教科書貸与」「定員1学級25名」「活きた学問の指導」「道徳の実践」などの独特の教育方針を掲げた。

成蹊中学校 第1回入学生(1914年)
成蹊中学校 第1回入学生(1914年)
最後列中央に中村春二

成蹊中学校 1914年開校

高等教育への進学のための詰め込み教育ではなく、健全な人格形成をはかる徳育教育を望む父兄らの強い要望を受けて開校した。経済的に豊かな家庭の子弟が多く、自由で大らかな校風を作り出した。園芸作業や駆け足、暑さ寒さに耐える裸体凝念、断食などの心身鍛錬教育も実施された。

成蹊小学校 最初の入学生と教員(1915年)
成蹊小学校 最初の入学生と教員(1915年)
最後列左端に中村春二

成蹊小学校 1915年開校

成蹊中学校の開校に伴い、その前段階である小学校教育の重要性を感じ、開校した。午前は凝念のあとに授業、午後は毎日田園に出て遠足や遊戯。児童は教師とともに自然の中で実物を見て学び体を鍛えた。何事にも自奮自励の精神を持って自主的に学ぶ習慣を身に着けさせることを目標とした。子どもの自由を標榜する大正期の学校の中で、注目される存在となった。

成蹊高等女学校 第3回卒業生(1922年)
成蹊高等女学校 第3回卒業生(1922年)
最後列右から4人目に中村春二

成蹊女学校 1917年開校

小学校を開校した中村は、母親が行う家庭教育の重要性を感じ、女子教育が必要であるとして、池袋の南、目白上り屋敷に開校した。明治以来の伝統的女子教育とは異なり、心身の鍛錬による人格教育を目的とした成蹊教育がここでも実践された。「新聞の読み方」という授業では広く世間を見る目を養い、社会的知識の涵養を図った。1921年に成蹊高等女学校となる。

成蹊実業専門学校 第2回生(1918年)
成蹊実業専門学校 第2回生(1918年)
前列右から4人目に中村春二

成蹊実業専門学校 1917年開校

岩崎小弥太を社長とする三菱合資会社の要請により、実業界における人材の育成を目的として開校した。成蹊実業専門学校は高等教育機関であったが、鍛錬を通じた人格教育、自力教育にも重きをおいた。原則全寮制。特色としてはノート制の廃止、試験無監督制、修身にかわる「雑談」の時間が設けられていた。卒業生には就職が保証された。

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