成蹊教育の原点を知る

中村春二の教育理念と手法

成蹊教育の原点を知る

中村春二の教育思想

  1. 一、個性尊重と内面への着目
  2. 二、鍛練主義と自発的精神の発揮
  3. 三、教師と児童・生徒との心の共鳴
  4. 四、禅的な教育精神と『真我』の希求

教育図解

『教育図解』とは中村春二が教育に関する意見を図を付けて解説したものである。
12枚1組で1917年に発行された。

現今教育の欠陥(コップの中をみよ)

『教育図解』より「現今教育の欠陥」『教育図解』より「現今教育の欠陥」(コップの中をみよ)
『教育図解』より「現今教育の欠陥」
(コップの中をみよ)

この図で、右側に立つ人物は妻子等の係累の重荷を担う教師であり、「形式」を踏み、金と名誉と権力のみを見つめている。下には様々な形(個性)をしたコップ(生徒)が多数置いてあり、外界からの刺激が黒い澱となっている。教師は上から知識を注ぎ込むが、注ぎ込むほどに生徒の自発の精神は蒸散してしまう。

本図で中村が指摘していることは、①これまでの教育研究は教育時期、学校設備、教授法、教師の資格、教材など教師側に偏っており、今後は生徒側の研究こそ必要なこと、②生徒は多様な個性を持つ存在であり、画一的に扱うことはできないこと、③個性により扱いを変えることは、多人数の教育では不可能なこと、④外界の刺激(朋友、新聞、雑誌、小説、活動写真など)による心中の澱(障害物)を取り去るべきこと、⑤生徒に皆、自発の精神を持たすべきこと、⑥教師は目の付け所を改め、生徒との心の共鳴一致を求めること、⑦これらの研究によって教育の効果は著しく高まること、とまとめられる。

ここに示された批判意識は、中村が当時、旺盛に発表していた公教育批判の主な論点とほぼ重なる。まさに「現今教育の欠陥」を一図に凝縮して鮮やかに表したものと言える。
参考『成蹊学園百年史』

生徒と教師の心の共鳴

『教育図解』より「生徒と教師の心の共鳴」
『教育図解』より「生徒と教師の心の共鳴」

中村が目指していたのは、生徒一人ひとりの個性に徹し、勉学と鍛練的な実践を通じて、真の実力を備え自発的精神に満ちた、真摯で自立した人格を育てることであった。このような人格は生徒自身に努力によって獲得されるべきものであり、指導に当たる教師には、生徒と共に向上を目指す「先達」として、自発的精神と真剣さ、熱誠、信念と意気とが求められ、内面を深め人格を修養することが重んじられた。

中村は右のような図を示している。中村はこの図で、教師と生徒の関係をABCの三段階に区別している。まず、Aの段階の教師は教育を生活の方便としていて自信がなく、生徒も外界の刺激に心を左右されており両者の心は著しく離れている。Bの段階では、教師には自覚があり教育に尽瘁しているが、生徒の心は外界に向いたままで心はつながれていない。Cの段階では、生徒も「本心」から学びを求めて教師に向き合っている。子弟それぞれの「本心」は深く「連結」されて「授受正しく行はれ」、外界の刺激も防止されている。こうなって教育の神聖は認められ、教育の楽しみを味わうことができるが、教育者の責任は極めて重大となる、と中村は指摘している。

教育とは教師の一方的な教え込みではなく、生徒に委ねてしまうことでもない。生徒の求める心と教師の心からの指導とが出合うときに成り立つもの、と言い換えることができよう。
参考『成蹊学園百年史』

凝念と心力歌

~心の力を養う~

中村春二は、「自奮自発の精神」や「真剣の気分」を引き出すには、生徒自身が自己の修養、向上を主体的に捉えることが大切であり、さらに禅宗の僧堂教育の修行にみられるような鍛錬的教育が必要であると考えた。この人物養成の方法は、成蹊教育を特徴づける「凝念」と「心力歌」、その他の鍛錬的行事などによって具体化されていった。

心力歌

心力歌

「心力歌(こゝろの力)」は、1913年に中村春二の構想により、第一高等学校以来の親友で、当時、成蹊実務学校で教鞭を執っていた小林一郎に依頼して作成された。「心力歌」では、人間の内面的主体性を意味する「心の力」の重要性を多角的に、また力強く説いている。心力歌は全八章から成り、凝念の後に唱和されるようになった。

凝念

凝念

「凝念」とは、文字通り「念を凝らす」こと、すなわち精神の集中を意味し、凝念法とも呼ばれた。静坐して目を閉じ、手を下ろして軽く組み、下腹に力を込めて無念無想のうちに注意を集中する精神統一法であり、毎朝授業前の20~30分間、日課として行われた。冬には寒気の中で上半身裸になっての「裸体凝念」が、夏には炎暑の中で綿入れを着用しての「綿入れ凝念」が行われたこともあった。

凝念は、現在でも成蹊小学校や中学・高等学校で行われ、心力歌もまた成蹊の教育精神を表すものとして唱え継がれている。

参考『成蹊学園百年史』

夏の学校

~ひとときも生徒と離れないで~

成蹊実務学校創立以来、成蹊各校で行われた「夏の学校」とは、夏季休暇をなくして通常の授業を行ったり、数日間の旅行や遠足、鍛錬的な行事を行う期間の総称である。中村は夏季休暇の時期を、炎暑を克服する絶好の機会として重要視した。夏休み廃止は、ひとときも生徒と離れないで徹底した教育を行おうとする情熱と責任感の現れでもあった。

旅行では富士登山や海水浴を実施したほか、箱根仙石原で一週間のテント生活を行った。小学校のテント生活では、毎朝6時半起床、付近の清い小川で洗面、高原の朝霧をふんで凝念、心力歌を斉唱後、朝食という朝の行事からはじまり、毎日弁当のむすびをもって、金時山、乙女峠、長尾峠、あるいは大涌谷から姥子へ、また冠ヶ岳から神山へと山歩きをするのが日課だった。時には芦ノ湖から元箱根へ、また早川の清流に遊ぶこともあった。生徒は一人一人身の回りの整理整頓をし、毎日日記をつけ、便りを書き、後は仙郷楼という宿屋で夕食、入浴、その後講話をきくというきわめて規則正しい生活を送った。生徒たちの中には写生をしたり、仙石原で植物採集を行い、標本をつくるのに熱中しているものもいた。

夏の学校は現在も成蹊小学校、中学校の「特色ある行事」として受け継がれており、教師と児童・生徒が寝食をともにしながら自然豊かな地で学習し、心の交流を深めている。
参考『成蹊学園百年史』『人間 中村春二伝』

箱根のテント生活(成蹊小学校)
箱根のテント生活(成蹊小学校)
箱根のテント生活(成蹊女学校) 中村春二筆
箱根のテント生活(成蹊女学校) 中村春二筆

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