ここに一人の人間があった。

心は純粋無垢で、
醜さというものを
全くもたなかった。

血筋も良く、才智に恵まれ、
貧乏をさげすまず、
権力に媚びず、
ひょう 々として人生を歩いた。

眉目秀麗 びもくしゅうれい 、気品に満ち、
自然を愛し、神を敬い、
人を愛して憎まず、世の為、
人の為に尽すことのみを
念願としていた。

目的に向っては信念を貫き、
常に人々の先頭に立ち、
少しも怯まず、
臆するところがなかった。

惜むらくは天二物を与えず、
その精神は はがね の如くであったが、
肉体がこれに伴わなかった。

彼は己が身の限界を知り、
悩み、苦しみ、 懺悔 ざんげ しつつ、
若くしてこの世を去った。

しかし、その名は不朽であり、
その精神は、
多くの教え子たちの心の中に
生きつづけている。

この人の名を中村春二という。
「人間 中村春二伝」より

中村春二 没後100年
特設サイト

成蹊学園創立者 中村春二
成蹊学園創立者中村春二

この人の名を中村春二という。
「人間 中村春二伝」より

しかし、その名は不朽であり、その精神は、
多くの教え子たちの心の中に生きつづけている。

惜むらくは天二物を与えず、
その精神は はがね の如くであったが、
肉体がこれに伴わなかった。

彼は己が身の限界を知り、悩み、苦しみ、 懺悔 ざんげ しつつ、
若くしてこの世を去った。

眉目秀麗 びもくしゅうれい 、気品に満ち、自然を愛し、神を敬い、
人を愛して憎まず、世の為、人の為に尽すことのみを
念願としていた。

目的に向っては信念を貫き、常に人々の先頭に立ち、
少しも怯まず、臆するところがなかった。

ここに一人の人間があった。

心は純粋無垢で、醜さというものを全くもたなかった。

血筋も良く、才智に恵まれ、貧乏をさげすまず、
権力に媚びず、 ひょう 々として人生を歩いた。

成蹊教育の原点を知る

中村春二の教育理念と手法

教育図解

現今教育の欠陥(コップの中をみよ)・生徒と教師の心の共鳴

現今教育の欠陥(コップの中をみよ)・
生徒と教師の心の共鳴

心の力を養う

凝念と心力歌

凝念と心力歌

鍛錬と体験主義

夏の学校

夏の学校

成蹊学園創立者 中村春二
成蹊学園創立者中村春二

中村春二略歴

1877年3月31日

神田猿楽町に誕生

真の人間教育を成蹊園を開塾

1890年
高等師範学校附属学校尋常中学科に入学
1896年
第一高等学校に入学
1899年
東京帝国大学文科大学国文学科に入学
曹洞宗第一中学林で国語科の講師となる
1903年
東京帝国大学卒業
小藤小波と結婚、六男三女をもうける
[曹洞宗大学林、
東京高等師範学校附属中学校、
麹町女学校などで教鞭を執る]
1906年
今村繁三氏の援助を受け本郷西片町の自宅に学生塾を開く
1907年
岩崎小弥太氏が参画
学生塾を成蹊園と命名

池袋に五校を次々と開校

1912年
池袋に成蹊実務学校を創立
凝念法を開始
1913年
「心力歌(こゝろの力)」完成
1914年
成蹊中学校を開校
1915年
成蹊小学校を開校
機関誌『新教育』創刊
1916年
成蹊教育会を設立
1917年
成蹊実業専門学校を開校
目白に成蹊女学校を開校
成蹊学園学園長となる
『教育図解』出版

財団法人成蹊学園の設立

1919年
財団法人成蹊学園を設立
『導く人の為めに』出版
校地を吉祥寺へ移転することを決定
1920年
かながきひろめかいを設立
『かなのめばえ』創刊
1922年
七年制高等学校設置を決定
1923年
五行詩を提唱
『斯の道の為めに』出版

1924年2月21日

逝去(四六歳)

戒名は「成蹊院枯林黙笑居士」
巣鴨染井墓地に眠る
中村春二略歴

成蹊教育の原点とその後の学園の発展を紹介

(動画 : 約15分)

中村春二を知る

成蹊学園史料館

成蹊学園史料館では、100年を超えた成蹊の歩み、
独自の教育理念と実践の様子を展示しています。

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