図書館案内
日程:2025年11月28日(金)
『推し、燃ゆ』/宇佐見りん著/河出書房新社 請求記号:BN14/う17/2
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宇佐見りん『推し、燃ゆ』は、読者の心に静かで重たい余韻を残す小説だ。主人公のあかりは、学校にも家庭にもなじめず、周囲からは理解されない孤独を抱えている。そんな彼女にとって、唯一の拠り所が「推し」のアイドルだった。彼の活動を追いかけ、言葉を記録し、その存在に日々の意味を見出す。彼女の生き方は痛々しく映るかもしれないが、その必死さにはどこか胸を打たれる切実さがある。
物語は、推しが「ファンを殴った」という事件から揺らぎ始める。あかりが信じてきた絶対的な存在が崩れるとき、彼女はどう生きていけばいいのか。私たちは、彼女の不安定な呼吸と同じリズムでページを追い、迷いと葛藤を共有する。短く切られた文や途切れ途切れの思考は、彼女の心のざわめきをそのまま映し出し、読み手を彼女の内側へと引き込んでいく。
私はこの小説を「推し活の物語」としてだけでは読めなかった。むしろ、人が誰かを心から必要とする姿の普遍性が、あかりを通して浮かび上がってくる。誰にでも、自分を支えてくれる存在や大切に思える何かがある。その拠り所を失ったとき、人はどれほど脆くなってしまうのか。本作は、その当たり前でありながら忘れがちな真実を、容赦なく私たちに突きつける。
同時に、あかりの生き方には温かさも感じられる。彼女は推しを思うときだけ、自分の居場所を持つことができる。たとえそれが不安定なものであっても、彼女にとっては確かな救いであり、生きる理由そのものなのだ。その姿に私は、「人は誰かを愛することでしか生きられない」という当たり前のことを改めて教えられた気がする。
読み終えたとき、私はあかりの孤独に胸が締めつけられると同時に、不思議な優しさも感じた。それは、彼女の存在が「自分もまた何かに支えられている」という事実を気づかせてくれるからだ。『推し、燃ゆ』は、推し活という現代的なテーマを超えて、人が生きる上で誰かに寄りかかることの尊さと危うさを描いた物語である。だからこそ私は、この小説を読むすべての人に、あかりの問いをそのまま投げかけたい──あなたは今、何を拠り所に生きていますか。
『ひらいて』/綿矢りさ著/新潮社 請求記号:BN16/わ13/1
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心をひらくという愛
「ひらく」
この言葉を聞いた時、人は何を思い浮かべるだろうか。何かの扉を開ける場面や、 本のページをめくる場面か。あるいは「心を開く」という言葉だろうか。私は本書を読んで初めて、心を開くということの意味を考え、またその場面を目の当たりにした。この感覚を共有したいと思い私はこの本を選んだ。
この物語の主人公、高校生の愛は同じクラスのたとえに強く惹かれていた。だが彼の持っている手紙をきっかけに、彼には美雪という彼女がいると知る。愛は地味な美雪がたとえと付き合っていることが許せず、彼を好きだと隠したまま美雪に近づいていく。彼を奪えないなら、彼から美雪を奪えばいい。嘘をつき続けたまま彼女は驚きの行動をとっていく。
物語は一貫して愛の視点で描かれ、彼女は自分の感情を隠したまま、美雪に対してもたとえに対しても延々と嘘をつき続ける。取り返しのつかないところまで行き、ついにずっとたとえが好きであったと美雪に謝罪すると、美雪はこう返す。
「愛ちゃんは表面の薄皮と内面の肉が、細い糸でさえつながっていない。完全に分離してる。だからなにを言っても私には響かないし、届かない」
美雪は自分の恋人を奪おうとしていた愛の魂胆ではなく、嘘をつき続けもはや本心でさえ嘘のように聞こえてしまう愛自身を強く軽蔑した。彼女がまるで無意識にしてしまう癖のように体にこびりついた嘘を軽蔑したのだ。
自分の名前に対し、愛自身はこのように言う。「愛。常に発情している、陳腐な私の名前」 愛とは強く誰かに惹かれることか、それとも誰かと肌を重ねる温かさだろうか、「常に発情している」といえるものなのだろうか。少なくとも美雪を悲しませてしまったことに心からの後悔の涙を流す愛は、決して陳腐な愛をもっていないだろう。
「ひらいて」というタイトルは最初、愛のたとえに対する思いに繋がるが、中盤では美雪に対するものだともいえる。そして終盤で、これは愛自身が心を開くまでの物語なのだとわかる。心を開き自分自身を紐解く先に、愛があるのだと。これは気づきの物語なのだ。
本書では衝動的だが必死に生きる女子高生が詩的な文で丁寧に描かれており、そのアンバランスさに目が離せない。心を開くということはとても恐ろしいが、愛を知るためには欠かせないのではないだろうか。さらけだす、目をあわせる、心をひらく。人との向き合い方がそこにはある。
『トラジェクトリー』/グレゴリー・ケズナジャット著/文藝春秋 請求記号:913.6/けず
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どこに住んでいるのか。何語を話すのか。そして生まれ育ちは──。
本作の主人公は、英会話教室で講師を勤めるブランドン。彼は大学を卒業後、具体的な展望を持たないまま日本に渡ったアメリカ生まれの青年だ。しかし日本での生活は、図らずも彼にとってアイデンティティを問いなおすきっかけとなる。
ブランドンは「アメリカ人」という属性によって英会話講師という職を得ている。しかし自らの出自に希少価値が付され、それが消費される構造に巻き込まれていること、そして自分もそれに加担していることに、居心地の悪さを覚えていく。やがて自分がどこに属するかという根源的な問いに直面する。同僚のダイスケは「ガイアツ」という日本語を彼に教える。「日本人は英語を学ばないとだめだから、きみみたいな人がどんどんプレッシャーをかけたらいい」。
それでブランドンは日本を後にしたのか?
答えは否だ。ブランドンは日本に留まり、日本語をきちんと学ぼうと決意を固める。
異国文化に触れて、全面的にその国に同化したり、逆に愛国心を強めたりするのは、よくある反応のパターンにすぎない。一方ブランドンは、そのどちらでもない宙吊りの状態で、日本で生活していくことを決めたのだ。
また、生徒のカワムラさんとの交流も印象的だ。彼はアポロ11号が月面着陸した際の記録をレッスンの題材に求める。子どもの頃に抱いた遠いアメリカへの憧れを、今も手放せない彼の存在は、ブランドンの「軌道」を変える確たる重力源となっている。
物語の最後は2021年の連邦議会襲撃事件で締めくくられる。アメリカに住む妹と電話をしながら、ブランドンは日本で、テレビ越しに、襲撃の様子を眺める。祖国の分断と暴力性を象徴する事件を、外側から眺める彼の視線は、彼がアメリカに帰らなかった理由の一端を想像させる。かといって日本に馴染んでいるわけでもない。それでも「日本に執着していたわけではなかったけれど、ここの文化と言葉の中で自分なりに居場所を確保できた気がした。それを手放して、海外へ出ると、たちまちまた英語の世界の中へ放り出されるはめになる」とブランドンは語る。
昨今ナショナル・アイデンティティを安易にナショナリズムにすり替えた、排他的な言動が一部で幅をきかせるようになった。ブランドンの宙吊りの「軌道」は、確固たる居場所がないことへの不安を示すのと同時に、世界との距離を見つめなおすための一つの可能性を示している。
『他人の顔』/安部公房著/新潮社 請求記号:BN16/あ4/1
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化学研究所に勤める男は、ある実験中の事故によって顔面に非常に大きな傷を負ってしまう。そして男はその事故以来自らの顔を包帯で隠すようになった。周囲との間にできた壁、形だけのものとなってしまった妻との関係に、男は包帯の下で深い苦悩を抱える。やがて男は人工皮膚を使って、見ず知らずの「他人の顔」を型取った仮面を作り上げる。男は仮面を被ることで、大きな傷痕の残った自分の顔へのコンプレックスから解放される。そして、男は「他人の顔」を纏った状態で妻を誘惑することを計画する。計画を実行した男は、計画が成功し妻から自分の正体を見破られることはなかったと信じた。じっさいは妻は当たり前にその男の正体が自分の夫であることに気づいていたのだが、仮面によって自信を取り戻した夫の姿に安堵し、あえて気づかないふりをしていたのだった。
本作は男が妻に宛てた手紙という形式で、顔を失い、仮面を作り、妻を誘惑するという倒錯した計画を実行するまでの経緯が自意識過剰な男の思考とともにうんざりするほど長ったらしく、まどろっこしく書かれている(そこがまた本作の味わいでもあるのだが)。そんな手紙に妻は、
「あなたは、私が拒んだように書いていますが、それは噓です。あなたは、自分で自分を拒んでいたのではありませんか。」と返す。男は顔を失ったことで、まるで自分の存在が全く別のものに変容してしまったように思い込んでしまった。だから男は周囲から拒絶されたと感じるが、妻の言葉はむしろその拒絶が彼自身の自己否定から生じたものであることを示唆している。
本作が描く「顔の失うことによる自己の喪失」は、現代においてもリンクするテーマだと私は思う。男が仮面で新しい自分を作り出そうとしたように、現代人もSNSで"別の顔"を作り上げる。SNSでの仮面を被った自己の演出、外見への過剰なまでの執着、これらは男が大きな傷痕の残った自分の顔を隠し、「他人の顔」を纏ったことと似た構造を持っていると思った。本作は60年以上も前に書かれた作品ではあるが、現代に生きる人々にこそ読んで欲しいと思う作品だ。
『死んだ山田と教室』/金子玲介著/講談社 請求記号:913.6/かね
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夏休みのある日、山田が交通事故で死んだ。通夜に参加した生徒は、山田が2年E組の中心だったと口々に語り、悲しみに明け暮れた。そんな中、突然教室のスピーカーから死んだ山田の声が聞こえるようになった。2年E組の皆と声だけになった山田は、他の人に知られないために会話を始める際の「合言葉」を作り、秘密の時間を過ごしていく。山田は2年E組が大好きだと言った。皆も山田が大好きだった。修了式、2年E組最後の日に、山田は天国に行って消えるはずだった。涙ながらに盛大に送り出された。
山田は新学期になっても消えることはなかった。皆が3年生になって、学校を卒業して、社会人になっても消えることはなかった。誰も山田に会いに行かなくなった。ただ一人、和久津を除いて。和久津は先生になって山田の元に戻ってきた。山田を一人にしないために。山田を幸せにするために。しかし、山田は和久津に最後のお願いをした。「俺のこと、殺してくんね?」
この本の魅力として、話の展開の中で会話のやりとりがコミカルに描かれていることが挙げられる。くだらない話を友達と延々と話す男子高校生らしい会話が繰り広げられ、そこにさりげなく「死んで声だけになった山田」という異色の存在が入り込み、「死ね」「もう死んでるわ」というようなやりとりをしている点がシュールで面白い。
反対に、そのような賑やかな場面があるからこそ、山田の心情が苦しいほど辛い。クラスメイトが、山田は俺の中で完全に死んだ、あんなのは山田じゃないと言い放ち、皆の中で山田という存在が忘れられて、小さくなっていく。しかし、山田はずっとそこにいる。暗闇の中で、2年E組に取り残されている。『週刊少年ジャンプ』に掲載されている「ONE PIECE」という漫画では、「人はいつ死ぬと思う?」「人に忘れられた時さ」というやりとりがある。果たして山田はどうなのだろうか。もし、全員が山田のことを忘れたら、山田は死ぬことが出来たのだろうか。和久津の山田を幸せにしたいという思いは山田にとって幸せではなかったのではないか。
この本は、山田とクラスメイトを通して友情の大切さや儚さ、また、死ぬということはどういうことなのかについて考えさせる一冊である。山田は最後、死ぬことができるのか、ぜひ読んでみて欲しい。
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