【成蹊D&Iプログラム 12月12日(木)小林幸一郎氏 講演会&フリーセッション】を実施しました。
タイトル:成蹊D&Iセミナー 共生社会の実現 ~見えない壁だって、超えられる?~
4) アンケートへの回答 (5分)
詳細は、次のとおりです。
(内容) ①クライミングを通じ活動をするようになったきっかけ(経緯)
2005年からNPO法人モンキーマジックを立ち上げて2025年で20年になる。この法人のミッションは「Be happy, Fun together, Make future」 であり、この活動を伝えるためにまず小林氏が事業の基盤としている視覚障害の行うクライミングの様子を、昨年度映画化した内容をまとめた動画 (パラクライミング世界選手権で4連覇を成し遂げたクライマーのコバこと「小林幸一郎氏」と、彼の視力となるサイトガイドのナオヤこと「鈴木直也」が、米ユタ州にあるフィッシャー・タワーズの尖塔に立つことを目指す様子を追ったドキュメンタリー) を見ることから始めた。立ち上げたNPO法人は、視覚障害者をはじめとする人々の可能性を多きく広げることを目指すとともに、障害者クライミングの普及を通じて、多様性を認め合うユニバーサルな社会を実現し、より成熟した豊かな社会を創ることを目指している。小林氏は中央区で生まれ、体育・スポーツが大嫌い、勉強もできない劣等感のかたまりだった。そのまま中学でも帰宅部であまり楽しくない日々を送り、当時一番嫌いだったのは「小林君の夢は何?」と聞かれることだった。そして、高校になってたまたま手に取った雑誌が「フリークライミング」だった。その雑誌の中ではクライミングは「人と比べることがない自分の限界を押し広げるスポーツ」だと書いてあった。その言葉に感銘し、すぐにクライミングクラブに電話しクライミングを始めることとなった。はじめて登ったのは長野県の八ヶ岳だった。自然の岩をのぼるものだったが、自分にもできるものがあることを知り、自然の中で過ごす面白さや多くの多様な大人たちとの出会いがあり、劣等感の塊であったが初めて「自分の居場所」を発見することができた。そして大学では、1日10時間週5日アルバイト、サークルには入らず授業には出なかったが、4年間をクライミングに注ぎ込み、1か月の海外旅行3回と2週間の海外旅行3回実行した。
大学卒業後は旅行会社に就職し営業マンとなり、成績も上がらず上司から怒鳴られる3年間だった。その後転職しアウトドア―企画運営(L.L.Bean)に8年間勤務し、毎週末には野山にいく実に楽しい日々であった。28歳までは普通に目が見えていたが、ある時視力の異変に気が付き病院に通い、遺伝を原因とする網膜の病気だと判明する。そして近い将来失明することを告げられた。徐々にアウトアドの自然が褪せ見える星の数も減っていった。目は中心部から見えなくなり新聞や本などが読めなくなり、いろいろなことができなくなった。そして悪い未来ばかりみていた。
そんな時、友達からいい病院があるからいってみたらということでその病院にいってみた。ここの病院にはロービジョンクリニックがある。直せない障害者に対して、社会制度や杖の使い方などを教えるところだった。そこで「あなたが何をしたいか、これから何をするのか」を考えることだと教わり、患者の会がありいろんな方と出会うことになった。ある時、友人の結婚式がアメリカであり、その時にアメリカに7大陸に登頂した全盲のクライマー(エリック、ウェインマイヤー)がいることを知った。早速本を購入し彼にメッセージを送り、英語で「あなたに会ってみたいという」というメッセージを送った。そして、彼のアメリカの家で会うことができた。
②モンキーマジックの活動と個人のクライミングの継続
16歳でクライミングに出会い28歳で失明宣告をうけたが33歳にエリックに合うまでの間、自然にクライミングを続けていた。エリックは、クライミングを通じてその魅力を伝える活動をすることが日本での君の仕事ではないかと言ってくれた。それが自分の思いを具体化するきっかけになった。そして具体的に事業計画をたていろいろな関連する施設等思い当たるところへ立ち上げの趣旨を説明しに行くが門前払いの日々が続いた。最後は関連の学会に飛び込み自分の経験を伝えることを繰り返しようやく理解してくれる方々を見つけることができた。とにかくNPO法人を立ち上げてからの最初の2~3年はとても苦労をした。
また個人としてはクライミングを続け、2008年ロシアのパラクライミング大会に誘われ金メダルをとり、2011年イタリアでの世界大会でも金メダルをとった。その後完全に失明してからもパラクライミング世界大会で4連覇することができた。
最初から自分がこんなに世界に行きメダルをとり活動を広げるなどとは思ってもいなかった。実際には、自分の世界を広げるその実感ができる「プチチャレンジ」の積み重ねが大切で、メダルをとることよりもそれを今でも大切にしているかもしれない。モンキーマジックの活動は、2014年からは日本全国に徐々に活動が広がり今では全国で20か所となり、また2024年からはアジアの仲間の国々にもこの活動が広がるようになっていった。そしてアフリカのケニアの盲学校では、勉強する機会は多くなったが、リクリエーション機会が少なくなったことを聞き、これはモンキーマジックができることだと思い、計画を立て資金を集め実行に移した。
③モンキーマジックの活動の意義(価値創造型)
学生の皆さんとはクライミングを通じて一緒に豊かな未来を考えてくれる仲間になってくれればと思っている。モンキーマジックのボランティア活動は、課題解決型(例えば、被災地の復興支援など)というよりも価値創造型であり、価値創造型ではその手段として芸術・スポーツが使われることが多い。このような活動を通じて社会をよりよくしたいと考えており、クライミングを通じ障害者も含めたすべての人にとって「どんな豊かな世界ができるのか」を具体的・実践的に考えてゆきたい。未来を創っていくために「Be happy, Fun together, Make future」(モンキーマジックのミッション)。最後に、NPO法人モンキーマジックの宣伝動画を見て話しを終わりにしたい。(3分程度の動画を視聴)
3) フリーセッション
会場と小林氏との間で、次のような質疑応答があった。
質問①-1 (一般参加者より)クライミングをしていて怖いなと思ったことがありますか。 (小林) 二度ばかり怖いと思った経験があり、それは目に見えていた時期のことでした。クライミングは一般的に危険だと考えられていますが、車の事故の確立 の方がはるかに事故の確立が高 い。クライミングだから危ないわけではない。 質問①-2 (一般参加者より)また、クライミングをやめたいと思ったことがありますか。 (小林) ありません。意思をもってやめようと思ったことはありません。これからも続けていきます。
質問② (学生参加者より)自分の限界を知る」ことをクライミングを通じ知ったとあり、それを乗り越えられたのもクライミングだったということですか? (小林)クライミングを通じ続けることでいろんな出会いがあり、しかもそれを自分から積極的に求めたことで開けたのだと思います。
質問③ (学生参加者より)苦難をいろいろと越えられえてきたとおもいますが、何か小林さんにとっての「信念」がありますか。 (小林) 自分がやっていることが楽しいかどうかだと思います。よくアスリートが「努力は夢中に勝てない」といいますが、「良きことは楽しいことには勝てない」と思っています。
質問④ (学生参加者より)自然が好きということでしたが、キャンプでおすすめの場所はありますか。 (小林)16歳の時にいった長野県の「川上村(廻り目平キャンプ場)」、西伊豆の「雲見」(真西に駿河湾が見える)、そして絶対に行ってほしいところとしてアメリカの「ヨセミテ」。
質問⑤ (一般参加者より)病院の先生に「何をしたい」と言われたとき、普通は何をしたいか分からないから医者に聞いていると思うがどう感じていたのか。 (小林) その先生からは「できないことばかりを見なくていいですよ」というニュアンスであったと思う。見えなくなり助けてもらう人生というわけではなく、障害のある無しにかかわらず、 やれることはたくさんある。
質問⑥ (一般参加者より)NPO法人を立ち上げる時に、趣旨を分かってもらえず否定され続けたが、自分にこれが必要だと貫かれた。何がそうさせたのか。何か原動力になっていたか。 (小林) よく、あきらめなかったなと思う。私自身が16歳で変われたという自信、そして、現在54歳になってもクライミングを続けられている自分への自信、旅行会社での営業でのつら い経験などが合わさり、自分の革新への信念と経験が原動力になっていると思う。
(小林さんより)
最後に、1月の第4月曜日に「マンデーマジック」と称してイベントをよっているので、よろしくお願いします。また、この活動は、みなさんに参加していただくことで社会を豊かにする活動です。ぜひ、皆さん来てください。
3 まとめ
設立10周年の記念の講演会としてもとても印象深いよいイベントとなった。一般参加者の中には、小林氏のお母様や親交のある視覚障害者仲間、そして「健康政策論」や「武蔵野地域連携セミナー」の履修者なども含め300名近い方に伝えることができた。また、質問も一般及び学生からそれぞれ出され、小林氏の信念や考え方をより理解する機会ともなった





- 関連リンク
- 成蹊ボランティアプログラム(SVP)