学びの蹊
文学部
DEPARTMENT OF LITERATURE
ANIMATION MOVIE
1867年パリ万国博覧会とジャポニスム
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1867年パリ万国博覧会とジャポニスム
「ジャポニスム」と「万博(万国博覧会)」。どちらも一度は耳にしたことがあるでしょう。しかし、この両者に深い関係があることを知っている人は少ないかもしれません。1867年のパリ万博開催とジャポニスムの流行には、いったいどのような関係があったのでしょうか。アニメーションでわかりやすく解説します。
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2025年に開催される大阪・関西万博。1970年の大阪万博から半世紀を経て、再び大阪の地で万博が開催されることになりました。さて、初めて日本が公式に万博へ参加したのは、江戸幕府の最後の年、1867年に開催された第2回パリ万博でした。
日本は、約200年におよぶ鎖国時代を経て、1853年のペリー来航、1854年の和親条約、1858年の修好通商条約の締結などを通じ、欧米諸国と外交・通商関係を結んでいきました。1867年パリ万博への参加は、開国間もない日本にとって、まさに国際デビューの舞台になったのです。
また多くのヨーロッパの人々にとっても、本格的な日本の展示を目にする最初の機会になりました。当時のフランスの美術批評家エルネスト・シェノーは「1867年の万博は、日本をすっかり流行の先端に位置づけた」と述べました。まさに1867年パリ万博への日本の参加は、フランスで「ジャポニスム」という文化現象が広がる契機になったのです。ただ、その背景にあったのは、単なる異国趣味だけではありません。当時のフランス政府や幕府の思惑、フランス産業界からの要請なども関係していました。今回はその知られざるストーリーをご紹介しましょう。
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そもそも万国博覧会は、どのように誕生したのでしょうか。世界で初めて万博が開催されたのは1851年のイギリス、ロンドン。当時、産業革命を経て、自由貿易が推進され、「世界の工場」として全盛期を迎えていたイギリスは、ロンドン万博でその繁栄ぶりを世界に示すことになります。万博の会場には、参加各国の最先端の機械類や製品が一堂に展示されました。また、これらの展示品は評価・序列付けが行われ、優秀なものは表彰されました。
このように万博は、諸国の産業の自由競争の場として始まったのです。これに刺激を受けたフランスは、1855年、第一回パリ万博を開催します。その後、1862年に第二回ロンドン万博が、1867年には第二回パリ万博が競い合うように開催されました。しかし、この第二回パリ万博は、それまでの万博とは一味違った特徴を持っていたのです。
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さて、当時の日本は幕末。国内で長州藩を中心に倒幕運動が高まり、幕府に改革を迫る薩摩藩がイギリスと親密な関係を築いていました。これに危機感を覚えた幕府はフランスとの関係を重視し、1867年パリ万博への参加を決定しました。
幕府使節には将軍慶喜の名代として13歳の弟、徳川昭武が派遣され、その随員には渋沢栄一らが参加することになります。万博は、参加各国の代表者が集まる社交の場であり、ここに将軍名代が出席することで、日本における幕府の主権を諸外国にアピールしようと試みたのです。
ちなみにこのヨーロッパでの経験が、渋沢栄一らによる明治日本の近代化への貢献に繋がりますが、その話はまた別の機会にすることにしましょう。
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一方、日本の展示品はどのように評価されたのでしょうか。日本の展示品は、中国・シャムと共同の区画に展示され、フランス・メディアからは当初、これら日本を含めた三国は「ほとんど区別できない」と評されました。
しかしパリ万博の授賞式において日本の「養蚕・漆器・手細工物(てざいくもの)ならびに紙」が最優秀賞であるグランプリを獲得することで、日本への注目が集まることになります。さて、この高評価は、いかなる背景があったのでしょうか。
まず、日本の養蚕業は、絹織物を主要な輸出品とするフランスにとって極めて重要な産業でした。というのも、フランスの絹織物は、蚕の微粒子病の流行によって大打撃を受け、良質な蚕および生糸を求めていたからです。また陶磁器や漆器など、日本の工芸品は、伝統を保持しながらも、創意工夫に満ちているとして、その芸術性が高く評価されました。
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この日本工芸品に対する評価の背景には、19世紀半ばのヨーロッパにおける産業事情が関わっています。当時ヨーロッパでは「産業芸術」という、産業製品に芸術性を取り入れるという理念が重視されるようになりました。産業革命を経て、大量生産が進み、安価で質の低い産業製品が市場に出回るようになると、これが問題視され、産業製品の質やデザインが重視されるようになったのです。まさにこの「産業芸術」の分野で日本の工芸品は高い評価を獲得しました。
フランスの産業は、その芸術性の高さに定評がありましたが、1851年ロンドン万博以来、イギリスが国をあげて産業芸術の分野に力を入れはじめました。フランス内で「産業芸術」の振興が急務とされるなか、日本の工芸品が注目を集めることになります。
フランスの産業芸術振興を先導したエドゥアール・ギシャールは、1867年パリ万博においてフランスの産業芸術が停滞していることを指摘し、これを打開するには新しいデザインを「自然」から学ぶ必要があると主張しました。また、フランスを代表する美術批評家 エルネスト・シェノーは1869年に「日本芸術」と題した講演を行い、日本工芸品が「自然」の要素を巧みに取り入れていることを称賛し、フランスも日本の工芸品から学ぶべきことが多くあると主張しました。
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こうして、1867年パリ万博以降のフランスでは日本の自然主義的なモチーフを取り入れた産業芸術が積極的に製作されていくことになり、これがジャポニスム流行の契機となったのです。当時、ジャポニスムは、「日本の器物(うつわもの)の装飾の研究」を意味し、産業芸術の振興という、フランス産業が抱えた課題と密接に関係していました。
この他、日本に対する高評価の背景として、当時の国際関係も影響したことを指摘すべきでしょう。1867年パリ万博では、中国が公式に参加しなかったことが批判の対象になりました。
実際、アヘン戦争以来、中国が独自に万博に参加することは極めて困難な状況にあったと言えるでしょう。パリ万博における中国の展示を準備したのはフランスでした。その一方、日本が公式に参加したことで、日本は「文明化された国々に加わった」として国際的に評価を高めることになりました。工芸品の評価においても、中国は質の低下が指摘される一方、日本はその芸術性が称賛されました。このように日本は、中国との比較を通じて評価を高めていく傾向が読み取れると言えるでしょう。ただし実際にフランスの貿易統計を見ると、どうでしょうか。ジャポニスムが流行した1870年代も、フランスは中国から多くの磁器を輸入し、フランス市場には日本と中国の工芸品が混在していたことが指摘できるのです。
このように「ジャポニスム」という新しい文化の現象について明らかにするには、文化や芸術のみならず、当時の政治や国際関係、経済、産業など、多角的に検討する必要があります。
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200年あまり続いた鎖国時代を経て、19世紀半ばに欧米諸国と外交および通商関係を開いた日本は、各国といかなる交流を展開していったのでしょうか。比較文化研究の授業では、19世紀後半のフランスを中心に欧米諸国で広がった「ジャポニスム(日本趣味)」という文化現象に注目し、この文化現象が誕生した経緯や背景は何だったのか、日本および関係各国の政治・経済・文化・社会などの状況を取り上げて多角的に検討していきます。こうして高校までの世界史のように歴史を流れで見るだけでなく、1つの事象を様々な角度から検証することで、現在のグローバル社会を複眼的に読み解く力につなげていきたいと考えています。
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成蹊大学文学部にはご紹介した学びの他にもさまざまなテーマに取り組む少人数のゼミがあり、教員と学生が近い距離の中で日々の学びに取り組んでいます。