ミニ授業 文学部の教員による
ウェブサイトだけの特別授業

メディア=<顔>!?
西 兼志【現代社会学科】

メディアと聞いて、まず思い浮かべるのは、TwitterやInstagramを始めとしたソーシャル・メディアや、テレビや新聞といったマス・メディアではないでしょうか? しかし、わたしの考えるメディアはもっと広く、<顔>もメディアだと考えています。

この点については、心理学のある実験が参考になります。それは、「視覚的断崖」を使った実験です。この実験は、赤ちゃんが奥行きを把握できるようになるのはいつからなのかを確かめるために考案されました。ガラスのテーブルを用意し、手前の半面は、ガラス板の裏面に直接、格子柄の板を張り付け、残りの半面は透明なままにしておき、ガラス板の裏面ではなく、その下の床に同じ格子柄の板を置きます。そして、この透明な面の先に赤ちゃんのお気に入りのおもちゃを置いておきます。奥行きが把握できていないぐらい幼い赤ちゃんなら、おもちゃまでどんどん進んでいきますが、奥行きが把握できるようになると、ガラスの下に床が見えるのを恐がり、止まってしまいます。おもちゃのところに行きたいのですが、テーブルが透明なため、床までが見えていて怖いわけです----高所恐怖症の人ならわかると思いますが、大人でも、スカイツリーのガラス床は、大丈夫だとわかっていても怖いものです。これが視覚的断崖で、おもちゃを手にするには、見かけ上の崖のうえを進んでいかないといけません。こうして、赤ちゃんは好奇心と恐怖心のあいだで板挟みになるわけですが、そこに第三者が登場してきます。たとえば、お母さんが、おもちゃの先で、笑顔で安心して渡っておいでという表情をします。すると、赤ちゃんはおもちゃのところまで進んでいきます。しかし、お母さん自身が不安げな表情をすると、赤ちゃんはそこから進もうとしません。つまり、赤ちゃんとおもちゃとの関係は、お母さんのような第三者との関係によって媒介されており、それによって規定されているわけです。顔色を伺っているわけですが、その色が、赤ちゃんにとっては、世界そのものの色になるのです。このように、世界との関わりが、第三者を介して行われることを、「社会的参照」といいますが、この<わたし>−<第三者>−<世界>という三極構造は、ソーシャルであれ、マスであれ、メディアによるコミュニケーションの構造そのものです。私たちが世界の出来事に接するのは、第三者=メディアを通して以外にはないのです。その意味で、先に、<顔>もメディアなのだと言いましたが、むしろ<顔>こそがメディア、第一のメディアなのです。

そして、メディアに<顔>が溢れているのも、この<顔>のメディア性ゆえのことです。映画やテレビ、あるいは、雑誌では、スターやタレント、アイドルにモデルが、インターネット上でも、YouTuberなどのインフルエンサーが活躍し、わたしたちに向かって微笑みかけてきます。アニメやマンガに登場するキャラは、このような存在の<顔>性を強調=デフォルメしたものにほかなりません。メディアに<顔>がこれほど溢れているのは、<顔>が第一のメディアとして、わたしたちの視線を捉え、世界の出来事に差し向けるものだからなのです。赤ちゃんも、生まれて一時間も経たないうちから、<顔>を注視し、その表情を模倣しさえします。  以上のようにメディア論の射程は広いものなのですが、そこには、もうひとつ重要なことがあります。それは、わたしたちは、けっしてメディアの問題から逃れられないということです。<顔>がすでにメディアなのですから、メディアのない世界などありえず、ソーシャルであれ、マスであれ、メディアとは、そもそも人間的な現象なのであり、わたしたちがそもそもわたしたちであるのは、メディアによってなのです。その意味で、メディア論の問題は広いだけでなく、深い、根深いものであるわけです。このように、メディア論とは、人間や社会のあり方を根本から考え直すよう促すものなのです。