学園施設紹介

散歩の蹊

成蹊学園内には、数々の胸像・石碑が存在しています。詳細は、解説をご覧ください。

  • ※写真撮影をされる場合は、広報課までご連絡ください。
  • ※警備上の都合により、小・中高の敷地はお入りいただけない場合がございます。

解説

①中村春二先生記念胸像大学情報図書館前

本館西側、大学情報図書館建設地前に建っています。
これは、中村春二先生13回忌を期し結成された卒業生団体である「成蹊会」の第一事業であり、卒業生の寄付によりつくられました。制作は北村西望氏(帝国美術院会員・東京美術学校教授)に依頼し、1936(昭和11)年6月除幕式が行われました。本館正面にあるものはこれのレプリカです。

②岩崎小弥太元理事長記念レリーフ本館前庭東側

本館東側前に建っています。
これは、成蹊学園50周年記念事業の一つとして、成蹊学園の育成に40年以上も関わった岩崎小弥太元理事長を偲びつくられたものです。
除幕式は成蹊大学10周年記念式典の行われた1959(昭和34)年11月。制作は中村春二先生の胸像と同じ北村西望氏でした。

③今村繁三元賛助員記念胸像大学情報図書館前

大学情報図書館建設地南側にあります。
成蹊学園創立50周年を記念して、卒業生より贈られたものです。1963(昭和38)年4月除幕式が行われました。高野山金剛峯寺金堂の復元にあたり「金剛薩」の制作で知られる菅原安男氏が制作に当たりました。

④こもれび正門前欅並木

この像は、故石黒俊夫理事長のお志をもとに、武蔵野の自然の中にある成蹊学園の美しい環境を守り、児童・生徒・学生・教職員その他学園に関わるものの健やかな成長を願って設置されたものです。
この像は、横浜山下公園にある「赤い靴はいてた女の子」の作者として広く知られる山本正道氏にお願いしました。山本氏は制作に先立ち成蹊に何度も立ち寄りイメージを固め、約2年をかけて2000(平成12)年3月完成しました。

⑤旧制成蹊高等学校開校60周年記念碑本館前庭前

1985(昭和60)年7月旧制成蹊高等学校開校60周年を記念して大学図書館前に建てられました。
これは成蹊学園の歴史の中で旧制高等学校25年間の教育理念と存在価値を伝え、将来にわたる学園の教育振興に寄与しようと成蹊会がつくったものです。校歌の一節である「吾等讃えん その名成蹊」(上條信山書)と刻まれています。
学園内の工事の関係で1995(平成7)年3月学園本館前庭に移築されました。

⑥学園戦没者慰霊碑本館正面玄関階段2階踊場

学園本館正面玄関階段2階踊場に掲げられています。
成蹊の学校に在籍していた方、働いていた方で戦没された方の慰霊碑で、1964(昭和39)年9月に除幕式が行われました。慰霊碑には下記のように記され、戦没した方々のお名前が記されています。
........................
祖国のために戦没された
職員卒業生に慰霊の誠を
捧げここにその名をしるす

昭和三十九年七月 成蹊学園
........................
その後、1971(昭和46)年12月に6名の方、2001(平成13)年7月および2002(平成14)年1月に1名の方が追記されました。

⑦桃李不言の碑(中村先生自筆)小学校中央館裏口

1980(昭和55)年2月、小学校中央館竣工に際して中村春二先生の書を写し記念としたものです。
側面には「第六十四回卒業生の芳志により、中央館竣工に際して、中村春二先生の書を刻して記念とする。昭和五十五年二月 野村純三書」とあります。

⑧陸上競技部創立50周年記念碑400mグラウンド北側メインポール東側

成蹊陸上競技部創立50年を記念して、1976(昭和51)年7月400メートルグラウンド北側メインポール東側に建てられました。
碑面には「敗れて流す涙あらば 練習の苦しさに泣け(川越敬楓書)」とあります。そばには記念樹のメタセコイヤも植えられています。

⑨桃李不言の碑(中村先生自筆)中高中央館東側

1981(昭和56)年12月まとまった額になった卒業記念品代等を「成蹊の生徒の精神面に裨益するものに使わせていただく方が一層有意義と考え」(当時の奥住中学・高等学校校長)建てられたものです。碑の文字は中村春二先生直筆の短冊から文字を取り刻んだものです。
中学・高等学校中央館の角、中学校と高等学校のホームルーム棟へ向かう道の分岐点に建てられています。

⑩岩崎元理事長鎌倉別邸の和風門中高西門東側扶桑通り沿い

成蹊中学・高等学校の西門、扶桑通りに面して建っています。
これは、1939(昭和14)年岩崎小弥太元理事長の鎌倉の別荘の正門が移築されたものです。
鎌倉の別荘は岩崎小弥太元理事長が三菱合資会社社長に就任された1916(大正5)年に、母君の静養のために建てられたと伝えられています。母君がお亡くなりになり、母屋は東京麻布区長谷寺へ、門は成蹊学園へと移されました。しかし、母屋のほうは、1945(昭和20)年5月の空襲で焼失してしまいました。

⑪啓行門中高門西側

この門は1939(昭和14)年11月に報命神社の神門として建立されました。
報命神社は、1938(昭和13)年10月1日に学園内敷地、明正学寮(学生寮)内に創建された神社です。当時の土田誠一校長は古神道学者であって、成蹊学園における教育方針は「神ながらの道」に立脚した「日本人教育」を実践に移したものでありました。現在は啓行門を残すのみとなっております。
なお、報命神社の本殿・拝殿は1946(昭和21)年5月、鹿島神宮に寄贈されました。

⑫ラガークラブ・メモリアル400mグラウンド南本部席西側

400メートルグラウンド南本部席西側にあります。
これは、ラグビー部のOBが英国の名門校にある戦没ラガーの記念碑と同じようなものを成蹊のグラウンドを見渡せるところに作りたいと考え、1964(昭和39)年9月に建てたものです。 碑面には
........................
栄誉ある勤めの為し遂げられた時に於いてすら
我々は君達の名声を思はふとはしない
又君達が戦ひに勝った事を思ふものでもない
だが君達が唯戦ったと言ふ事 それから君達の
あの楽しげな高らかな笑ひとを思ふ
君達は賞賛とか非難とか言ふ事が
この上もなく嫌ひである
だから我々は君達の碑に刻む
"He Played The Game"

C.Scott
........................
とあり、戦没者だけでなく、物故されたラガーも記念しています。

⑬志田素琴先生句碑14号館東側(松林)

1941(昭和16)年7月、先生の学徳を慕う人々が発起人となって緑陰堂文庫(図書館)があった松林の中に建てられました。碑面には「暮れて越す草山一つ春の月」と刻まれています。
志田義秀(素琴)先生は松尾芭蕉の研究家で、中村春二先生の東大国文科時代の親しい友人でした。旧制成蹊高等学校開設と同時に教授として就任し、図書課長も務められました。

⑭供養塚大学情報図書館南西側

現在の大学情報図書館建設地にあった大学1号館はかつて「理化館」といわれ、旧制高校生・小学生の理化教育が行われていました。「理科館」とせずあえて「理化館」としたのは、建物の設計案等にあたられた旧制高等学校の加藤藤吉先生のお考えによる「物理・化学・気象を含め、自然現象をありのまま正しく観察する、実験を中心とした理化教育」によります。
1938(昭和13)年秋、小学校で解剖に使った動物だけでなく、飼育小屋や教室などで飼っていた動物の死骸も葬り、生命の尊さを教えるために自然発生的に供養塚が建てられました。石塚の表面には「供養塚」とあり、裏面には「昭和十三年秋文英書」とあります。旧制高校で歴史・地理を担当されていた南條文英先生の書です。

⑮残したい日本の音風景百選成蹊学園 欅並木

1996(平成8)年7月成蹊学園欅並木は環境庁の残したい日本の音風景百選に選ばれました。
成蹊の欅並木は通学路として、また市民の方々の身近な生活道路として利用されており、四季折々の姿の美しさとともに、四季を通じさまざまな音を演出しています。これを記念し、1999(平成11)年4月に建てられたものです。

⑯中村草田男先生句碑成蹊学園 欅並木

2011年11月12日、学園創立100周年記念行事として、長きにわたり本学で教鞭をとられた俳人・中村草田男先生の句碑を学園西側外周路(欅並木沿い)に建立しました。句碑には『空は太初の青さ妻より林檎受く』という句が刻まれています。この句には、「居所を失ふところとなり、勤先きの学校の寮の一室に家族と共に生活す」という前書があります。終戦後で食料も乏しく、住宅事情も良くなかった時代に、草田男先生が疎開先から家族を呼び戻され、成蹊学園の寮で生活を始められた頃に詠まれた作品です。