成蹊教育のモノコト

建学の日

3月23日「建学の日」の由来

成蹊実務学校開校を10日後に控えた1912年(明治45)年3月23日、近隣からの類焼により校舎が全焼するという不運に見舞われました。中村春二は「教育は建物ではなく精神である」と、仮校舎を急造し予定通り開校。
成蹊学園では中村春二が教育に対する不退転の決意に至ったこの日を「建学の日」と定め、建学の精神を永く継承していくこととしました。

開校10日前に危機に直面した「成蹊実務学校」。

1912(明治45)年3月23日、午前0時半。成蹊学園のスタートとなる「成蹊実務学校」の開校式を10日後に控えたこの日、隣接する豊島師範学校の寄宿舎から突然火の手が上がりました。火は折からの烈風に煽られて、またたく間に燃え広がり、火の粉は新校舎にまともに吹きつけてきたのです。紅蓮の炎は、地を這うように麦畑を越えて、まず平屋建ての校舎に燃え移り、次いで本館を炎に包み込んでいきました。中村春二は、塾生や村人たちの協力を得て書籍室に保管されていた貴重な書籍や資料を死にもの狂いで搬出しました。火の見やぐらからは「すりばん」が打ち鳴らされ、手押しの消防車も駆けつけましたが、烈風の中で手の施しようもなかったといいます。半年を費やし建てられた新校舎は、みるみるうちに灰燼(かいじん)と化し、そこに広がるのは、成蹊園の寮一棟を残しただけの、見るも無残な光景でした。成蹊学園は開校前から危機に陥ってしまったのです。

不屈の精神で1週間後、仮校舎再建へ。

焼け跡にまる1日たたずんで瞑想していた中村春二でしたが、すべてを予定通りに遂行するという一大決心をしたのです。「教育は校舎ではない。教師と生徒さえあれば、たとえ野原の上に立ってでも教育はできる」こう決心すると、早速、新校舎の再建を計画しました。当時の事情を中村春二は、火災の2日後「紅蓮の舌」と題して次のように記しています。「人生多事、災厄頓挫はもとより期するところと思ふと、ふと原の青草が目にとまった。ああ冬焼かれた草原も春ともなれば又芽ぐんで来たのである。焼かれたままでは草にも劣ってゐる。家は焼き尽されたが、私の志は決して祝融(中国の火を司る神)氏の自由に任せない、と思った」中村春二は、校舎の建築を依頼した大工の棟梁・吉野梅太郎を呼んで、直ちに焼け跡を片づけ、新校舎を再建するように頼みました。棟梁はしばらく考え込んでいましたが、「ようがす、やってお目にかけましょう!」と江戸っ子らしく言い切ったのです。こうして、隣の豊島師範学校が焼け跡の片づけさえ手がつけられていないのを尻目に、わずか1週間で仮校舎が再建されたのです。

火災を契機として信念の教育家に生まれ変わる。

この火災のことは新聞にも大きく報道されました。開校式に招待された人々は、この学校は取りやめになるか、秋の新学期まで延期になるだろうと誰しもが考えていました。ところが、中村春二は3月25日付けで「すぐ仮校舎を建てて予定通りに授業を開始致します」という挨拶状を各方面に送り、関係者を二度びっくりさせたのです。予定通り開校式を行うという通知を受けた賛助員の岩崎小弥太は大いに喜び、早速旅行先から、「カイコウシキヲイワフ、リソウニマイシンサレタシ、コヤタ」と電報を打ってきました。同じく賛助員の今村繁三は、「この火事で、中村君は全く人が変わった。どちらかといえば、やさ男の理想家肌の文学青年が、急にたくましい鉄人に変わったようだ」と批評しました。中村春二は、この災害を契機として信念の人に生まれ変わったのでした。

「火災記念日」から「建学の日」へ新しい成蹊学園の歴史が始まる。

そして4月2日、仮校舎において「成蹊実務学校」の入学式が予定通り執り行われました。中村春二は、新入生に対し、「教育は建物ではなく精神である。教える者と、学ぶ者との心さえ通えば、たとえ野原に立っていても教育はできる。仮校舎はみすぼらしいが、ここは桃李の里である。"桃李物言わずといえども、下自ら蹊となす"という言葉を味わってほしい。自分を磨いて美しい人格をつくれば、その人はたとえ何も言わなくとも、自ら世間に認められるようになる」と、諭しました。以後、3月23日は「火災記念日」として成蹊学園にとって大いに記念すべき日となったのです。中村春二は「この火災は今から考へると我々のために却って祝福すべきものである。我々は火事のために物質的には多大の損失を被ったが、精神的には却って大いに利益を得た訳である。この意味に於いて火災記念日を一種の祝日としてかくの如く祝ふのである」と述べています。

成蹊学園では、この日が中村春二が教育に対する不退転の決意をした日として、建学の精神を継承するに最も相応しい日付であるとの結論に達しました。よって、この日を「建学の日」とし、永く継承していくこととしました。