学科・大学院
主に2つのテーマに関わる研究を行っています。(1)明治10年代から20年代にかけての言葉や文学、文化について。特に、言文一致体と呼ばれる文体や、小説という文章のジャンルがどのように形作られたのかを研究しています。(2)ライトノベルを中心に、中学生や高校生を想定読者として出版されているさまざまな小説が、アニメーション、マンガ、ゲームなどの現代文化とどのように関わっているのかについて考えています。
近代以降の日本文学、文化に関わる講義と演習を担当しています。講義であれ、演習であれ、参加者がテキストを自分の力で読み解いたり、さまざまな情報を調べたりした上で、それらを文章としてまとめたり、口頭発表や討議を行ったりなど、主体的に授業に関わることができるような工夫をしています。
現代では、インターネット上で、画像データとしてさまざまな書物を閲覧することができます。しかし、モノとしての本には、画像データでは得られないような情報が多く含まれています。そのため、実際に現物を手に取って、モノとしての本を多角的に見ていくことで、ネット上のデータではわからなかった側面に気が付くことができます。情報社会に生きているからこそ、日本文学科の皆さんには、本に限らず文学や文化に関わるさまざまな領域について、できるだけ多くの現物に触れていってほしいと思っています。
小説を読むこと、書くこと、マンガを読むこと、アニメーションを見ること、すべてが「仕事」になってしまいました。授業、研究、校務以外の時間は、だいたい小説の原稿を書いたり、プロットを作ったりしています。最後の砦はサッカー観戦と落語を聴くことなので、ここだけは趣味として死守したいと思います。
日本語の文法について研究しています。現在は、江戸時代後期に江戸という都市で人々に話されていた「江戸語」の文法的特徴を、文法体系が類似している現代語の文法と比較・対象するという観点から分析することを中心に研究をすすめています。また、江戸語から現代語への言葉の変化とその要因の分析も研究対象の一つです。そのほか、現代語における文法的逸脱表現(たとえば、若者ことばの「キモい」や「違くない(違くね)?」など)が使用される理由などにも興味をもっています。
1年生を対象とした授業では、日本語研究の基礎、日本語法を担当し、日本語の音声、文字、語彙、文法の仕組みなど、日本語学の研究分野の全般にわたって平易に解説し、1年間で日本語を研究する際の基礎知識が身につくような授業を心がけています。2年生を対象にした「日本語学基礎研究」では、身近な日本語の具体事例を取り上げて、それを文法的観点から分析する方法論の基礎を演習形式で身につける訓練をしています。3・4年生対象の「日本語学演習」では、日本語の文法をテーマとして卒業論文を書く学生を対象にして、どのようなテーマをどのような方法論で分析し、掘り下げていくのかを、演習形式でディスカッションしながら議論し、一定の学問水準を満たす卒業論文が書けるような指導を行っています。
自身の研究とも関連しますが、各地の古本屋を巡り、江戸語の資料である「人情本」を収集するのが趣味の一つです。近年は新型コロナの影響でなかなか古本屋巡りができませんでしたが、これからゆっくりと再開できればと思っています。近年では、多くの歴史的資料がデジタルアーカイブされ、それをコンピュタータ上で検索できるようになっています。私自身も多分にその恩恵にあずかっていますが、その一方、実際の原本を読み進めることではじめて気づくことも多いです。どちらか一方に偏らず、目的に応じて柔軟に対応できる応用力を高めていきたいと思っていますし、これから日本語学・日本文学を学んでいく日本文学科の皆さんにもそうあって欲しいと思っています。
日本語の研究も好きですが、マンガを読むこと、アニメを見ることも好きです(乱読するタイプですが、このところ、ファンタジー系に偏っているような気がします)。学生の皆さんと好きなマンガやアニメの話で盛り上がるのも「くつろぎの時間」のひとつです。また、カエルグッズ集めが趣味で、吉祥寺の町中にあるカエルグッズ専門店がお気に入りです。そのほか、大人になってから体力づくりとダイエットのために始めたスイミングにすっかりハマっており、最近はマスターズ大会への参加をもくろんでいます。
平安時代の文学と、物語絵と、二本立てで研究しています。平安時代の文学といっても主に研究しているのは『源氏物語』。いくら読んでも分からないことだらけの怪物です。物語絵については、物語を絵画化する際にどんな工夫をしているか、物語絵をつくった人がその物語をどう理解しているか、といったことに興味があります。
私の授業ではしばしば、受講しているみなさんに質問します。例えば『源氏物語』の冒頭文、「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり」について、こんなことを訊きます。「「御時」という言葉によって、まずは帝の存在が語られます。次に、「女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に」とあって、後宮の盛んなさまが語り出されます。ここまではなだらかな展開と言っていいでしょう。ところが、続く「いとやむごとなき際には~ありけり」は、バランスの悪い表現となっています。「いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふ」が主部、それに対して述部はわずか4文字、「ありけり」だけなのです。このようにバランスの悪い表現となっているのは、なぜだと思いますか」。こういった質問ですから、答えは一つではありません。みなさんにしてほしいのは、私が用意している「模範解答」を探りあてることではなく、みなさん自身が作品と向かいあうことなのです。
小説でも映画でも、とにかく広い意味での物語が好きです。物語に浸っている時が、くつろぎの時間ということになるはずですが、それは読みはじめ見はじめだけ。私はたいへんに素直な人間なので、だんだん物語の世界に入りこんでゆき夢中になると、主人公たちに共感しながら泣いたりハラハラしたり怒ったり喜んだり……、要するに他人の人生を生きるわけですから、気がつくとひどく疲れています。おまけに、私は少しだけですがひねくれた人間なので、物語に浸りきってさんざん泣いた後で、「こんな出来の悪い物語に泣かされるなんて!」と大いに腹を立てて悔しがりますし、また、これも少しだけですがしつこい人間なので、出来の良い物語にめぐりあえると、嬉しさのあまり二度も三度も四度も読んだり見たりします。ですから、なおさら疲れるわけです。
日本語の文字・表記に関して、江戸時代の文献を中心に調査し、考察しています。昔は語や文章がどのように書かれていたのか、それがどのようにして今の書き方になってきたのか、昔の漢字や仮名の書き方で今も参考にできるものはあるかなどの問題を、過去の実態を記述しながら考えています。また、江戸時代の書き言葉についても調べています。
毎年必ず担当する科目として、日本語の歴史、実践漢字講座、日本語学基礎研究、日本語学演習があります。日本語の歴史は、古代から現代までの日本語の歴史の解説です。演習は、昔の文献を取り上げ、担当範囲のことばを徹底的に調査し、その結果から考えられることを述べてもらいます。日本語について考えるという比較的身近な問題なので、発表者以外の受講者も思いついた意見を色々と出してくれます。ほかに、日本語学講義を担当することがあります。
書物に関する思い出としては、まず、小学校低学年の頃に買ってもらった、いかにもつまらなそうな漢字辞典が、見たら意外におもしろく、漢字が大好きになったということがあります。また、小学校高学年からミステリに夢中になり、中学生のときは、創元推理文庫(特に背表紙の色が一冊ごとに異なるエラリー・クイーンの国名シリーズ。創元推理文庫は味気ない背表紙になってしまい残念です)を週末に買うのが一番の楽しみでした。早川書房の世界ミステリ全集も、一冊買うたびに興奮して眠れなかったりしました。高校時代に、街中の本屋で初めて早川のポケミスやミステリ・マガジンを手にしたときの感激も忘れられません。ミステリのうちでも、不可解な謎を手がかりによって論理的に解明するという本格ミステリは、日本語学に似ているところがあると言えます。もっとも、最近はあまり読まなくなり、品切れになった本を見つけては買うだけで満足してしまっているので、後輩たちにはコレクターと呼ばれています。
書物に関することで述べたように、ミステリを読むのが好きですが、根気がなくなってきているので近頃は長い小説をあまり読んでいません。音楽を聴くのも大好きで、クラシックでは特にドビュッシーなどの近代音楽が好きです。また日本のアーティストでは今は山崎まさよし、トライセラトップスなどを聴きます。ただ、これらについても以前は現代音楽からアイドルまで無敵の知識を誇っていたのですが、近頃はあまり聴かないし流行もよく知らないという状態になっています。休日には、史跡や文化財を見に行くのが楽しみで、同好の士と寺社・資料館に出かけたりしますが、絵馬や土鈴などの授与物、所蔵品の複製品などを買わずにはいられないので、やはり根っからのコレクターのようです。それはともかく、演習の学生とも、年に一、二回、石碑の文字を見に行ったりして楽しんでいます。
初対面の人と話していて共通の知人を発見すると、ほっとするだけではなくて、妙に嬉しい気持ちになりますね。その知人の、知らなかった一面が見えて、自分の世界が広がることが、たぶん、楽しいのでしょう。研究というのも、続けていると、意外なひろがりに驚くものです。私の研究の中心は江戸川乱歩や雑誌「新青年」ですが、乱歩をやっていると、乱歩が影響を受けた「進化論」のダーウィンだとか、「少年探偵団」と関係ありそうなボーイスカウト運動だとか、昔はそんなに関心を持たなかった領域が魅力的に映ってきます。「進化論」は「小説神髄」ともつながるし、ボーイスカウトはコナン・ドイルにもつながります。いわゆる専門というものの、内側と外側を行ったり来たりすることは、学問のよろこびの一つでしょう。
いわゆる純文学とか大衆文学とかミステリーとか児童文学とか、ジャンルにこだわらず、近代の文学をテキストとした演習と講義を担当しています。演習であれ講義であれ、授業というのは複数の人間が集まるわけですから、本質的にはお祭りみたいなものです。教員も学生も、それぞれ徹底的に準備して、そして十分な予習によるリラックスと、相手の言葉と自らの思索を戦わせる緊張感とで本番に臨む。そんなふうに、学生諸君にも授業という祭りを楽しんでほしい。学ぶことの楽しさは、卒業してからの力になるはずです。
本というのは、書き手だけではなくて、編集から印刷、販売まで、さまざまな人が関わってできあがります。印刷所や本屋さんで働く友人たちの、書物文化によせるせつない思いに、胸が熱くなることもしばしばです。心して、読みたいものです。
秘密です。ふ、ふ、ふ。
主に以下の三つのテーマに関わる研究を行っています。(1)僧侶による文学 中世の文学と仏教の関わりに興味があり、現在は、釈教歌といわれる仏教に関連する和歌について研究しています。(2)おみくじの文化史 和歌が書かれた日本独自のおみくじに関心を持っています。(3)古典文学教育におけるアクティブ・ラーニング 古典文学を主体的に学ぶための参加型授業の仕掛けを考えています。
日本の中世文学に関わる講義と演習を担当しています。参加者ができるだけアクティブに学べるよう、講義であれ、演習であれ、それぞれの授業形式に応じた個人ワーク・ペアワーク・グループワークを取り入れて、古典文学の世界を身近に感じられるよう工夫しています。授業の楽しさは、ともに学ぶこと。授業を通して様々な意見をシェアするなかで、あたらしい視点が得られます。
明治時代以前に作られた本を「和本」といいます。和本をめくっていると、以前の持ち主の書き入れに出会うことがよくあります。その本を、どのような人が、いつ、どこで読んで、どう感じたのか。そんなことを想像するとき、タイムスリップしたような気持ちになります。
元禄期の江戸俳壇の研究をしており、近頃はとりわけ雑俳と呼ばれる言葉遊びに関心を持っています。雑俳はとても庶民的な文芸で、ばかばかしいところもありますが、そうした点も含めて等身大の江戸の人々の姿が表現されているのではないかと思います。俳諧が当時の人々の間でどのように楽しまれていたかをもっと具体的に明らかにしてみたいです。
一年生のフレッシャーズ・セミナーと日本文学入門、二年生の古典文学基礎研究、三年生・四年生の日本文学演習という演習科目と、近世日本文学史という講義科目を担当しています。近世は古典の中では最も現代に近い時代であり、面白い作品が多く残っています。有名作から中学・高校ではあまり触れる機会のない作品まで、原文にそって丁寧に読み解いていきたいと思っています。
子供の頃、友達の間である忍者漫画が流行っていて、私もその漫画をきっかけに、いろいろな忍者に関する本を読んでいました。そしてある時、その漫画の作者が『万川集海』という忍術書を紹介しているのを知り、どうしても読んでみたくなりました。しかし、タイトルを頼りに一生懸命探したものの、当時の私には『万川集海』について少しだけ触れている新書を見つけるのが精一杯で、『万川集海』本文を見ることはついにできませんでした。先年「芭蕉忍者説の検討」という記事を書く機会があり、久しぶりに『万川集海』のことを思い出しました。そして、昔あんなに見たくても探し出せなかった本に、今ならあっけないほど簡単にたどり着けるということに幸せを感じました。現在は、文献上確かに存在していると考えられるものの、いまだ誰にも見出されることなく眠ったままになっている本を探す作業をしています。この本探しは子供の頃の本探しよりずっと困難ですが、そうした本を一冊でも多く見つけ出せればいいなと思います。
研究対象の範囲は、日本語の意味論・文体論・文法論にまたがっていますが、そのなかでもレトリックのメカニズムを認知言語学の手法を使って探ることがメインテーマです。一例をあげると、提喩(シネクドキー)というレトリックを研究対象にしています。「花見」では、「花」という上位カテゴリー(類)を用いて、下位カテゴリー(種)である「桜」を表していますが、このようなカテゴリーの階層間で起こる意味の変化や対象の呼び換えが提喩です。「花見」のような単純なものだけでなく、いろいろと複雑な言語現象が含まれていますので分析しがいのあるレトリックだと考えています。私のレトリック論を平易に解説したものして『学びのエクササイズ レトリック』(ひつじ書房)という本を執筆しました。興味を持たれた方には、この小さな本を読んでいただければ嬉しく思います。
1年生を対象にした授業では、現代日本語のいろいろな現象について広く扱い、日本語学の概括的な知識が身につくような配慮しています。2年生を対象にした「日本語学基礎研究」では、平易に書かれた日本語学・言語学の入門書について、自作のタスクを解いてもらう形で講読を行うとともに、短時間のプレゼンテーションも行ってもらっています。3・4年生を対象にした「日本語学演習」では、現代日本語学の分野で卒業論文を書くための知識・技術を身につけるために、前期には大量の文献を講読し、後期には卒論につながるようなプレゼンテーションとディスカッションを行います。大学院の授業では、指導院生の研究分野や将来の志望を考慮して毎年の授業計画を作っています。
どのような無意識の作用があったのか自分でもわかりませんが、震災を境にして子どもの頃好きだった将棋と落語に無性に興味が出てきました。将棋は、現在、インターネット中継により、メジャースポーツを観戦するように楽しむことができるようになっています。解説の棋士や対局現地の記者の誰もが予測できなかった歴史的妙手が指される現場をインターネットの動画中継を通してリアルタイムで見ることができたときは、久々に感動を味わいました。2012年10月3日に行われた王座戦第4局なのですが、渡辺王座の勝利間違いなしというやや弛緩した雰囲気のなか、挑戦者の羽生二冠が脇息をぐっと引き寄せてひとり思考に没頭しているさま、羽生二冠により6六銀が指されてからの沈着冷静の権化のような渡辺王座のかなり動揺した様子など、棋士の身体的な動きも指し手の妙味に負けず観ているものを惹きつけるものがあったと思います。落語は、CDやホール落語で名人達人の至芸を味わうのも勿論楽しいことなのですが、寄席の定席で、次々と出てくる演者の流れと客席の反応がうまくかみ合って何とも言えない一体感が醸成されたとき、忘れられない幸福感を得られることがあります。2013年4月16日の末廣亭夜席、授業後にかけつけてようやく間に合った中入り後、可龍師匠からトリの遊雀師匠までの1時間半あまりの時間は本当に至福のひとときでした。(2013年6月記)
日本の古代文学を専門としていますが、特定の作品や作家よりも、むしろ文学現象それじたいの歴史つまりは文学史に興味を持っています。これまでは「恋愛」を切り口にして日本古代の諸作品を読み解いてきましたが、これは『日本古代恋愛文学史』として本にまとめることができたので、次は和歌文学史や物語文学史の記述に挑戦したいと考えています。
1年生対象の「日本語・日本文学入門」では、高校での古文学習から大学での古典文学研究への橋渡しをすべく、自分自身の力で原文の内容を理解する読解力を養成することに主眼を置いています。2年生対象の「古典文学基礎研究」では、具体的な作品を取り上げてその注釈作業を一人一人に課すことを通して、古典文学研究の土台となる調査能力を習得してもらうことに主眼を置いています。3・4年生対象の「日本文学演習」では、基本的な注釈作業を踏まえた上で、作品をいかに読み解きその魅力をどう位置付けるのかを考える力を身につけてもらうことに主眼を置いています。
精読よりも乱読するタイプです。小学生の頃は火の鳥文庫の伝記、中高生の頃は赤川次郎や西村京太郎といった作家の小説を、全冊読破を目標に片っ端から読んでいました。大学生になってからは、文学といえばフランスかロシアだろうということで、これまた図書館のフランス小説やロシア小説の棚を端っこから攻略する計画を立てていました(いずれも途中で挫折しましたが)。現在も、近所の図書館で似たようなことをやっています。
手当たり次第に本を読んでいます。それを「くつろぎ」と言えるのか、半ば強迫観念に近いようにも思いますが、ともあれ暇な時は本を読んでいることが多いです。最近読んで面白かったのは、井奥陽子『近代美学入門』、鈴木大介『ネット右翼になった父』、倉田博史(監修)『文系のためのめっちゃやさしい統計』、牧野百恵『ジェンダー格差』、吉村均『日本人なら知っておきたい日本の伝統文化』などです。