SPECIAL INTERVIEWvol.91

Special Interview 蹊を成す人
第96代内閣総理大臣 安倍晋三氏

第96代内閣総理大臣安倍 晋三


成蹊学園は、私の「心のふるさと」です。


成蹊学園を卒業し、各分野で活躍する方々の「人」に迫る、 スペシャルインタビュー "蹊を成す人"。
第1回は、多忙極まるお仕事の合間を縫って安倍総理大臣が登場してくださいました。成蹊での思い出、リラックスタイムの過ごし方など、終始にこやかに、そして懐かしそうに語られるお姿が印象的でした。

プロフィール:
1954年生まれ。小学校から成蹊学園で学び、77年成蹊大学法学部政治学科を卒業。神戸製鋼所勤務を経て、父・晋太郎氏(当時・外務大臣)のもとで秘書を務める。93年衆議院議員に初当選。自由民主党社会部会長、幹事長、内閣官房長官、自由民主党総裁などを歴任し、2006年第90代内閣総理大臣。2012年第96代内閣総理大臣。

恩師の教えがあったから、今の私がある。

恩師の教えがあったから、今の私がある。

総理は小学校から大学まで成蹊学園で学ばれています。
成蹊学園に進まれたきっかけを教えてください。

私だけでなく、兄も小学校から成蹊学園なんです。私たち兄弟を成蹊で学ばせるよう強く勧めたのは、祖父の岸信介だったと聞いています。長州出身の祖父は吉田松陰を尊敬しており、多くの志士が巣立った松下村塾を教育の理想形と考えていました。そのため、同様の私塾的精神を持つ成蹊学園に共鳴していたようです。知識詰め込み型ではなく、個性的で創造力豊かな人材を育成する、そんな「人間教育」に力を注ぐ教育方針にも好感を持っていたと思われます。
また、母がかつて吉祥寺に住んでいて、欅並木を散歩したこともあったそうですし、親戚の一人が成蹊学園で教員をしていたこともあって、身近に感じていたことも要因だったでしょう。

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在学中はどのような生徒、学生でしたか。

小学生の頃を振り返ると、特にリーダーシップがあったというわけでもなく、どちらかというとおとなしい子供でしたよ。スポーツをするのは好きで、5年生ではバスケットボール部、6年生では剣道部に入りました。中学・高校では文化部で地理研究部。さまざまな場所に出かけては、その地域の産業構造などをフィールドワークしていました。大学時代はアーチェリー部に所属しまして、4年間、それこそ練習漬けの日々でしたね。おかげで肉体を鍛えると同時に、プレッシャーに打ち克つ精神も身についたと思います。

思い出に残っている先生はいらっしゃいますか。

決して忘れられないのが、小学校最後の担任をしてくださった野村純三先生。
「君たちは一人ひとりがスターだ。それぞれが必ず、輝くものを持っている」が口癖でしたね。生徒を甘やかすのではなく、厳しく温かく、自分のことをきちんと見て考えてくれていると感じ取れる先生でした。野村先生で思い出す出来事があります。放課後、友人と大学の工学部(現在の理工学部)の資材置き場に忍び込んで遊んでいたことがありまして。エンジンを外した車があったんですが、ブレーキを解除すると動かせるんですよ。それがとうとう見つかって大学側から小学校に連絡が行き、野村先生に呼び出されたんです。私たちはいたずらの全貌を話しました。すると先生は私たちを叱り、そして褒めてくれたんです。「人は失敗や過ちを起こす。でもその後が大事だ。お前たちは正直だった」と。人生の糧となる言葉や指導を、先生からは沢山いただきましたね。野村先生は校長を11年間の長きにわたり務められた後、83歳になるまで教師の指導にあたられていました。
まさに人生を小学校教育に捧げられた先生です。3年ほど前に他界されましたが、私たちは頻繁に、それこそお亡くなりになる寸前まで「先生を囲む会」を開いていました。もちろん、私もできる限り出席していました。

成蹊で出会った友人は、何物にも代えがたい宝物。

成蹊で出会った友人は、何物にも代えがたい宝物

学園生活を共にされたご友人とはおつきあいがありますか。

少人数制の学校ということもあって、生涯を通じて長く付き合える友人ができやすい。それが成蹊の特徴でしょう。
小中高、大学と、それぞれの時代に素晴らしい友人に恵まれ、今でも時々会って昔話に花を咲かせたりします。中でも大学のアーチェリー部の仲間は連帯感が強く、年に2回くらいは会っています。何の気兼ねもなく楽しく過ごせる、実に貴重なひとときです。以前、総理を辞めざるを得ない辛い局面がありましたが、そんな時も成蹊時代の友人が心から励ましてくれました。本当に有難いですし、何物にも代えがたい私の宝物です。

政治家になることを意識されたのは、いつ頃でしょうか。

小学校を卒業する時の"私の夢"に「政治家」と書いていましたが、実際に決心したのは大学卒業後、3年間勤めていた神戸製鋼を辞め、父親の秘書になってからです。
最晩年、膵臓病に侵されながらも父親は、当時ソ連のゴルバチョフ大統領と会談し、平和条約に向けて交渉を再開する端緒をつくった。まさに命を懸けた外交でした。
そんな姿を間近で見ていましたから、私もこの仕事を全身全霊でやり遂げたいと思っています。

卒業生として、伝統に恥じない仕事を。

卒業生として、伝統に恥じない仕事を。

日本のトップリーダーという極めて重要なお立場にいらっしゃるわけですが、
成蹊で学ばれたことでご判断や行動の糧になっていることはありますか。

先ほどお話しした野村先生からは特に大きな影響を受けています。個性尊重の教育は成蹊教育の核だと思いますが、それは「一人ひとりがスターだ」という野村先生の言葉にも表れていますね。「人は必ずしも立派な側面だけではない。立派な人間になろうとする姿勢が大事なんだ」という教えも心の奥深くに染み込んでいます。小学校の6年間というのは人間形成に極めて重要な時期だと思いますが、その大切な時に熱意ある素晴らしい人格の先生に巡り会えたことは、私の人生にとって実に幸運なことでした。
また、心力歌の暗唱や毎日の凝念も、心の力をつけるのに少なからず役に立っているような気がします。もっとも当時は凝念に対してどうも真剣味が足りなかった。もっと真面目にやっていたら、もっと精神集中力もついていたでしょうが(笑)、仲間と同じことを一心にやるというところにも意味があったんでしょうね。今は時間的に無理ですが、座禅に通っていた頃がありまして、その度に凝念を思い出しました。そしてやはり、成蹊の名の由来になっている"桃李不言"。これは私の座右の銘になっています。
人に対して威張ったり、地位を利用して従わせようとしたりするのではなく、まず自分の人格や魅力を磨くことが大事。
私もまだまだその境地まで達していませんが、政治家としてこの成蹊の精神はずっと大切にしていきたいですね。

総理大臣として、充実感や喜びを感じるのはどのような時ですか。

総理大臣として、充実感や喜びを感じるのはどのような時ですか。

よくこうした質問を受けるのですが、なかなかそういうことを感じている時間はないんですね。次から次へといろんな出来事が起こる。ひとつの山を越えると次の山に向かわなければならないし、山がないと思ったところにも突然新しい山が生まれる。だから、充実感や満足感など感慨にふけることがあるとすれば、職を辞する時でしょうね。
ただ、政治家は国民のために、自分が理想とする政策を実行しようと上を目指します。私はそのトップに立ち、主張し続けていた経済政策を進めることができた。いわゆるアベノミクス、日本では非常識とまで言われた経済政策ですが、結果を出すことができました。それに対する達成感のようなものは感じています。

お休みの時のストレス解消法やリフレッシュ法はありますか。

ひとつはゴルフですね。自然の中に身を置いて、ボールを打つ。日頃のことを忘れられる時間です。月に1回行けるかどうか、これで歴代首相の中でも多い方みたいですが、間違った判断をしないためにも、むしろきちんとリフレッシュしておくことが大切だと考えています。スコアですか?スコアは気にしないようにしています(笑)。
あくまでリフレッシュのためです。あとは時々ビデオ鑑賞もしますよ。仕事の資料を読む時間も必要なので、2時間かかる映画ではなく、1時間以内で収まるアメリカのドラマシリーズなどを観ます。他には寝る前の読書、歴史小説や推理小説を読むのも気分を切り替えるのにいいですね。

総理にとって、成蹊学園とは何でしょうか。

「心のふるさと」ですね。私は16年という長い間を成蹊学園で過ごしましたし、武蔵野の自然に包まれた美しいキャンパス、そこでの日々は決して忘れられません。
小学校に入学した日、舞い散る桜の花びらをみんなと帽子ですくって遊びながら帰った。そんなことを今でも鮮明に覚えています。何年か前に欅並木を歩く機会がありましたが、学生時代を思い出して胸がキュンとなりました。建物が少々変わろうと、あの欅並木や桜並木を見るとホッとした気持ちになります。

総理にとって、成蹊学園とは何でしょうか。

一昨年は成蹊学園の創立100周年でしたが、今年は成蹊中学校、来年、2015年には成蹊小学校が創立100周年を迎えます。メッセージがございましたら、最後に一言、お願いいたします。

成蹊中学校、小学校が100周年を迎えるということで、OBとして大変嬉しく、そして誇りに思います。学校やそこでの教育は、月日を重ね、伝統を重ねていく中で成長するものであり、また、卒業生の厚みが学校の厚みにもなっていきます。私も成蹊学園の卒業生の一人として、恥ずかしくない仕事を残していきたいと思っています。

友が語る/蹊を成す人

自然と周りに人が集まる、昔からそんな人柄でした

私と安倍君が親しくなったのは、大学2年の時。お互いが体育会本部の役員になったことがきっかけです。同じ法学部でしたので前から彼の存在を知ってはいました。あれほど有名な家柄ですし、いったいどんな人だろうと思っていましたが付き合ってみると実に気さくな人柄で、良い意味で意外な印象を受けましたね。3年の時の四大戦は成蹊が当番校で、特に大変でした。そんな中で一体感が生まれ、大会期間中に皆で安倍君の家に泊まり込んで作業したことや、苦労しながらもわいわい楽しんでやっていたことを今でも懐かしく思い出します。安倍君は学生時代、同期はもちろん後輩達からもすごく慕われていましたね。私の家内がアーチェリー部で彼の2年後輩なのですが、「いちばん相談しやすい先輩は安倍さん」とよく言っていました。リーダーシップがあって、思いやりもあって。しかも安倍君には周りの人の心を和ませる力があります。そんな人間性に惹かれて、自然とたくさんの人が集まってくるんでしょうね。多忙な立場にいる今も、その合間を縫って皆で会おうよと声を掛けてくれます。激務の中でリラックスできる時間を一緒に作れたら私達もうれしいですし、安倍君と過ごすひとときを、同期も後輩もいつも楽しみにしています。

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武藤 正司

岩通販売株式会社
常務取締役 営業本部長
1977年法学部法律学科卒
体育会本部で武藤氏が委員長、
安倍氏は会計局長を務める

※四大学運動競技大会は「四大戦」と表記
会計局長 安倍晋三
○会計局長
安倍晋三
(アーチェリー部)
体育会の「火の車」の台所をあずかり、四苦八苦。しかしこの経験は将来政界でもきっと役立ちますよ。
1976年度体育会誌体育会役員紹介より
委員長 武藤正司
○委員長
武藤正司
(スキー部)
体育会本部の運営はこの人がいなければ一日足りとも進まないという本部一の重要人物。くだらない冗談をとばしてみんなを疲れさせるのが唯一の欠点。
1976年度体育会誌体育会役員紹介より
footerCol__img04.jpg 1987年安倍氏の結婚パーティにて
向かって右から安倍氏、盛田氏、武藤氏

かけがえのない友人 そして、私の誇り

安倍君は大学のアーチェリー部の同期。毎日のように練習を共にし、練習が終われば一緒に屋台のラーメンを食べたり、吉祥寺の街で飲みながらアーチェリーの技術論を何時間でも語り合ったり。濃密な大学生活をまるまる共に過ごした無二の親友です。今の言葉でいうと癒し系と言うのかな、彼がいるとその場の空気が和み、自然と彼の周りに人の輪ができるんですよ。ユーモアもあるし、ムードメーカーとしても部には欠かせない存在でした。成蹊のいいところだと思いますが、卒業後も結束力が強い。仕事が忙しくなってきても機会を見つけては仲間で会っています。そうそう、お互いの結婚披露宴では、それぞれ友人代表としてスピーチをしました。安倍君の披露宴は出席者の人数も凄いし、しかも政財界の重鎮がずらり目の前にいる。あれほど緊張したことはありません。それ以来度胸がついたので、彼には大変感謝しています(笑)。
親友が総理大臣になったことを誇りに思いますし、一方で、何か政治の動きがあるたびに自分のことのようにハラハラしてしまう。どうか体を大事にして、自分が目指すことを実現していって欲しい。そして、時間がとれる時にはまた顔を合わせ、飲んでしゃべって、学生時代のあの頃に戻りたいですね。

盛田 淳夫
盛田 淳夫

敷島製パン株式会社 代表取締役社長
1977年法学部政治学科卒
アーチェリー部で安倍氏と同期

※体育会アーチェリークラブは「アーチェリー部」と表記
アーチェリー部 安倍氏と盛田氏 アーチェリー部 安倍氏と盛田氏
的に向かっているのが安倍氏
大学を卒業した春休みに二人で旅行した山口県萩にて 大学を卒業した春休みに二人で旅行した山口県萩にて

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