SPECIAL INTERVIEWvol.96

Special Interview 蹊を成す人
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作家井上 荒野


作家としての根底に、父がいる。


とても気さくなお人柄が印象的な作家の井上荒野さん。
その小説家としての歩みを、戦後文学の巨匠である父・井上光晴氏との思い出を交えながらざっくばらんに語ってくださいました。

プロフィール:
1961年、小説家・井上光晴の長女として生まれる。玉川学園高等部を経て、87年成蹊大学文学部英米文学科卒。89年『わたしのヌレエフ』で第1回フェミナ賞を受賞して作家デビュー。2004年『潤一』で島清恋愛文学賞、08年『切羽へ』で直木賞、11年『そこへ行くな』で中央公論文芸賞、16年『赤へ』で柴田錬三郎賞を受賞。
著書に『グラジオラスの耳』『ひどい感じ 父・井上光晴』『静子の日常』他多数。『だれかの木琴』の映画化に続き、『結婚』も2017年夏に映画化が決定。『ひみつのカレーライス』など絵本も手掛けている。

好きな仕事だから、忙しくなるほどうれしくなります。

成蹊には久しぶりにお越しになったそうですね。学生時代のことを何か思い出されますか。

建物は新しくなりましたが、正門までの欅並木は今も変わらないですね。成蹊大学に入った時にとても開放的な雰囲気を感じた、そんな当時の気持ちが蘇りました。モダンジャズグループで仲間と楽しんでいた学生生活が懐かしく思い出されます。2年生の頃、フォークナーのゼミに所属していたんです。とてもエキサイティングなゼミでした。そこで一緒だった女子が学外で文芸同人誌をやっていて、それに私を誘ってくれたんです。彼女は私の父親が井上光晴だってことをなぜか知っていて、たぶんそれで声を掛けたんでしょう。彼女と私以外は社会人の集まりだったんですが、後から聞くと、私はずいぶん生意気なことを言っていたみたいです。そのくせ熱心に書きもせず、最初は酷評されていました。ここでの活動は長く続けましたし、その頃の仲間とは今も交流があります。

物を書くことは幼い頃からお好きだったんですか。

好きでしたね。まだ幼稚園とか小学校とか幼い時に、家に時々大きな段ボール箱が送られてくるんです。父が「あーちゃん、来たよ」って私を呼んで開けると、子どもの本がぎっしり入っていた。きっと父が私に本を読ませたくて、でも、子どもの本のことはよく分からないから、編集の人に頼んで送ってもらっていたんでしょう。それを繰り返し読んで、読むと、お話をまねして書きたくなった。そうしてお話を書いて両親などに読ませていたっていう記憶がありますね。

自分の道は、自分で選ぶことが大事です。

小説家の道を歩まれたのは、やはりお父様の影響が強かった?

やはり環境は大きいでしょうね。江國香織さんもお父様が物書きで、彼女と話しても感じるんですけれど、そういう家に育つとプロの物書きになるってことをあまり特別なことに思わないんですよ。普通だと、物書きになるなんて大変だよとか言われそうですが、そういった圧力みたいなものがなかった。
父からは様々な本を薦められて、それも影響していると思います。高校生くらいになると、もう大人の本を持ってきて...。最初はトルーマン・カポーティの「夜の樹」という短編集。その中に「ミリアム」っていう短編があって、これだけでもいいから読んでみろと。老いや死に対する恐怖、諦念みたいなことがテーマで、16歳くらいの若さで読んでもピンとこないわけです。でも、父はものすごく面白いと言う。父は、本当に俺って小説が上手いよな、ドストエフスキーの次に俺が上手いかもな、っていうのが口癖で。そんな父が面白いって言うんだから、面白い小説はこういうものだって思うわけです。もう刷り込みですね(笑)。私にとってそれが最初の文学への認識だったので、今でも私の素地、根底となっています。

小説家の道を歩もうと決意されたのはいつ頃なんですか。

それに答えるのはちょっと難しいんですよね。大学を卒業し、出版社でバイトをしながら同人誌に書いてはいたんですが、その頃は作家になろうなんて全然思っていなかった。いや、本音はなりたいと思っていて、なれないと嫌だから、その自分の気持ちを認めたくなかったのかもしれない。そんな中、ちょっと長めの小説が書けて、同人誌内で褒めてもらえたから賞に応募したんです。それがフェミナ賞をいただいた「わたしのヌレエフ」で、28歳の時。経歴上はこれがプロとしてのデビューになりますね。
でもその時はプロとしてやっていく覚悟もなく、小説を書くことと自分との関係がまったく取れなかったんです。受賞後1冊目の本はどうにか出しましたけど、もうほとんど自滅みたいな感じで、それから書けない時期が10年ほど続きました。小説家になりたいと自覚的に思ったのは、その後ですね。

書きたくても書けない。そんな時期が10年続きました。

書きたくても書けない。そんな時期が10年続きました。

せっかく立派な賞を受賞されたのに、小説が書けなくなってしまった...

そうです。ぽつぽつ仕事はしましたが、思ったとおりに書けなくなって。自分を絞るような、具合が悪くなるような、そんな感じで書いていました。何度も何度も書き直しても駄目で、途中で担当が変わって、そのうち担当からも声を掛けてもらえなくなって...。書かなきゃ、書かなきゃ、書かなきゃと思いながら、10年。誰も私のことなんて覚えていないだろうなっていうような状況になり、その間に大きな病気にも罹り。これ、私みたいな人間は早く死ぬように神様がやってるんだよねって、そう思うくらい駄目な状態でした。で、10年目に突然、長編小説の書き下ろしを頼まれたんです。ここで書かなかったら今後もう絶対に小説を書くことはないだろうと思いました。そして、その時にはっきりと思ったんです。私は小説家になりたいって。だから、ここで自分に納得のいくものを書かなきゃ終わりなんだって。父が亡くなってからずいぶん経っていたこともあり、父が読んだらどう思うだろうとか、父を知っている編集者が読んだらどう思うだろうとか、そういうことを一切考えないで好きなように書くことができました。でも、その内容は父が死んだ時に考えたことだったんです。人の死についてだったり、父が言った嘘についてだったり。この時に、自分が書きたいことと小説との関係が結びついた気がします。書き上げた作品を読んだ方から結構依頼がくるようになり、そして今につながっている感じです。

苦しい時期がありながらも、好きなことを続けてこられた。そうしたくてもなかなかできない人が多いと思うんですが、夢をつかむ原動力は何だったんでしょう。

これは父に感謝しなければいけないことなんですが...。父は訓辞を垂れるような人ではなかった。でも、ひとつだけ私にした教育があるとすれば、それは、人は何かにならなきゃ駄目だってことを、私が小さな頃からいつも言っていたんです。その何かっていうのは、お金持ちになるとか、いい会社に入るとか、そんなこととは全然関係なくて、自分の一番大事なところを使える何かを見つけなさいってことです。その言葉がやっぱり染みついていて、自分の何かは小説を書くしかないって心の奥底にあったんでしょうね。だから、プロにならなくてもいいけれど、小説は書かなきゃ駄目だって思っていた。

自分の道は、自分で選ぶことが大事です。

好きなことをしていらしても、創作活動では壁にぶつかることもあるかと思います。そんな時はどう乗り越えていらっしゃいますか。

どんな壁にぶつかっても、この壁はいつか必ず乗り越えられるって信じられるようになったんです。書けなかった10年間は、ちょっと書いてはすぐに放り出しちゃって。だけど、放り出さず、とにかく書けるだけ書くとどこかに道が開ける。突破できない壁はないと、今はそう自分に言うことができます。次の場面の出だしがうまくいかないとか、そんな小さな壁の時は、机を離れて単純な作業をしますね。洗濯物をたたむとか、モヤシのひげ根を取るとか、煮干しの頭を取ってワタを出しておくとか。すると、ひょいと思いついたりする。頭を1回クリアにするっていうことなのかな。けれど音楽とかじゃ駄目なんです。煮干しとモヤシ(笑)。

小説とは言葉。一行に一日かかることもある。

小説とは言葉。一行に一日かかることもある。

小説を書いていて充足感や喜びを感じるのはどんな時でしょうか。

やはり書き終わった時ですね。それが自分にとって納得のいくものだったりすると、ああ、書いていて良かったなあって。それから、どう書けばいいんだろうとか考えあぐねている時に、これだ!っていうひとつの言葉が浮かび、パッと視界が開ける瞬間がある。そういう時はすごくうれしくなりますね。小説とは言葉です。ストーリーを書くだけ、表現するだけだったら映画でもテレビドラマでもいい。言葉でつくられているものだからこそ、どの言葉を使うかっていうことはものすごく考えます。一行のために一日かかるなんてことも結構ありますね。

差し支えなければ今後の作品について教えていただけますか。

いろいろ考えています。ひとつは、いじめをモチーフにした中学生の話。これは「小説新潮」で連載が始まったところです。もうひとつは、瀬戸内寂聴さんと、私の父と、母の話。ちょっと自分としてもドキドキな感じで、これは画期的なものになると思っています。

ひとつでいい。自分だけのものを持ってほしい。

ひとつでいい。自分だけのものを持ってほしい。

最後になりますが、成蹊の後輩たちに何かメッセージをお願いします。

これは自分だけのものだ、これに対しては誠実でいられるっていうものをひとつ持っていると、生きていて楽しいと思うんです。それは待っていればどこからか降ってくるんじゃなくて、自分で頑張って探さないと手に入らない。私も若い時は夢中になれるものが何もなく、それがコンプレックスだったんです。けれど、今そういうふうに思っている人にも、必ず何かあるんだって言いたい。そして、学生時代や20代の時なんて、何でもできる。人がやらないからやらないじゃなくて、自分がやりたいことを何でもやってみたらいい。自分の価値観で生きてほしい、そう思います。

Works of Areno Inoue - 作品紹介

赤へ
第29回柴田錬三郎賞を受賞
赤へ
祥伝社/2016年6月
ふいに思い知る、すぐそこにあることに。
時に静かに、時に声高に――「死」を巡って炙り出される人間の"ほんとう"。直木賞作家が描く「死」を巡る10の物語。
切羽へ
第139回直木賞を受賞
切羽へ
(新潮文庫)
新潮社/2010年11月
かつて炭鉱で栄えた離島で、小学校の養護教諭であるセイは、画家の夫と暮らしている。奔放な同僚の女教師、島の主のような老婆、無邪気な子供たち。平穏で満ち足りた日々。ある日新任教師として赴任してきた石和の存在が、セイの心を揺さぶる。彼に惹かれていく──夫を愛しているのに。もうその先がない「切羽」へ向かって。直木賞を受賞した繊細で官能的な大人のための恋愛長編。
グラジオラスの耳
収録作品『わたしのヌレエフ』が第1回フェミナ賞を受賞
グラジオラスの耳
(光文社文庫)
光文社/2003年1月
「あたしには男が一人必要なのよ......ないと困るのよ、ないと、あたしは完成しないのよ」惰性でつきあっている恋人が手放せない淳子。「今度の男はガイジンでフリンよ」とうそぶく寿美野。得体の知れない青年とともに「グラジオラス会」なる奇妙な企てに熱中するリエ―どこにも繋がっていないロープにすがる女たち。井上荒野の周到にして不穏な罠に酔う。
潤一
第11回島清恋愛文学賞を受賞
潤一
(新潮文庫)
新潮社/2006年12月
伊月潤一、26歳。住所も定まらず定職もない、気まぐれで調子のいい男。女たちを魅了してやまない不良。寄る辺ない日常に埋れていた女たちの人生は、潤一に会って、束の間、輝きを取り戻す。だが、潤一は、一人の女のそばには決してとどまらず、ふらりと去っていく。小さな波紋だけを残して......。漂うように生きる潤一と14歳から62歳までの9人の女性。刹那の愛を繊細に描いた連作短篇集。
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映画化
だれかの木琴
(幻冬舎文庫)
幻冬舎/2014年2月
主婦・小夜子が美容師・海斗から受け取った、一本の営業メール。それを開いた瞬間から、小夜子は自分でも理解できない感情に突き動かされ、海斗への執着をエスカレートさせる。明らかに常軌を逸していく妻を、夫の光太郎は正視できない。やがて、小夜子のグロテスクな行動は、娘や海斗の恋人も巻き込んでゆく。息苦しいまでに痛切な長篇小説。
結婚
映画化決定 2017年夏公開予定
結婚
(角川文庫)
KADOKAWA/2016年1月
結婚願望を捨てきれない女、現状に満足しない女に巧みに入り込む結婚詐欺師・古海。だが、彼の心にも埋められない闇があった......父・井上光晴の同名小説にオマージュを捧げる長編小説。
綴られる愛人
最新作
綴られる愛人
集英社/2016年10月
作家であり人の妻でもある女。地方に住む男子大学生。二人は立場を偽り、秘密の文通を始める。熱を帯びる手紙は、彼らを危険すぎる関係へいざない......。著者新境地、衝撃の長編恋愛サスペンス。
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第6回中央公論文芸賞を受賞
そこへ行くな
集英社/2014年7月
長年一緒に暮らす男の秘密を知らせる一本の電話、中学の同窓生たちの関係を一変させたある出来事...見てはならない「真実」に引き寄せられ、平穏な日常から足を踏み外す男女を描く短編集。
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絵本
ひみつのカレーライス
絵:田中清代
アリス館/2009年4月
カレーライスを食べていると、口の中から種が出てきた。種をうめて、まっていると、やがて芽が出て、カレーライスの実がなったのです!
ひどい感じ父・井上光晴
ひどい感じ父・井上光晴
(講談社文庫)
講談社/2005年10月
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静子の日常
(中公文庫)
中央公論新社/2012年6月
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さようなら、猫
光文社/2012年9月

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