SPECIAL INTERVIEWvol.98

Special Interview 蹊を成す人
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ダイヤ精機株式会社 代表取締役諏訪 貴子


和をもって夢を追う


専業主婦から突然社長となり、そして会社を再興。
その奮闘ぶりはTVドラマ化もされました。
「町工場の星」と呼ばれる諏訪社長は、まさに輝くようなエネルギーを放ちながら、社長就任までの物語や仕事観を語ってくださいました。

プロフィール:
1971年生まれ。95年に成蹊大学工学部工業化学科を卒業後、大手自動車部品メーカーにエンジニアとして勤務。98年ダイヤ精機に入社。
2004年に父である先代社長が亡くなり、32歳で社長に就任。リーマンショックや東日本大震災に直面しながらも、次々と社内改革を断行。3年連続で売上を伸ばし、会社を成長に導く。11年から経済産業省・産業構造審議会の委員を務める。12年日経BP社の「ウーマン・オブ・ザ・イヤー2013 大賞」(リーダー部門)を受賞。著書に『町工場の娘』『ザ・町工場』がある。

学生時代は人生でいちばん勉強しましたね。

学生時代は人生でいちばん勉強しましたね。

ご実家の町工場を再生された奮闘記が話題になっています。何を作っている会社なんですか。

ダイヤ精機は精密金属加工メーカーでして、自動車部品の製造に欠かせない、寸法基準となるゲージなどを作っています。工場が建ち並び、モノづくりの町として知られる大田区にあるんですが、そういう環境で育ち、小さい頃から父の会社に行って職人さんが働く姿を見ていました。私が32歳の時に父が急逝し、ダイヤ精機を継ぐことになったんです。

著書やドラマにも描かれていましたが、後継ぎとなるお兄様がいらっしゃったのに夭逝されて...。

兄は6歳の時に白血病で他界しました。そもそも父がダイヤ精機を創業したのは、高額な治療費を捻出するため。元気になって会社を継いでくれる姿を夢見ていたのでしょう。その後に生まれた私は、両親にとっては兄の生まれ変わりでした。私も自然に察したのか、男の子のおもちゃや遊びばかりに興味を持っていましたね。兄の代わりに私に継がせよう、そんな思いが父にはあったと思います。
会うことはできなかったけれど、私の半分は兄で、いつもそばにいると感じます。二人分の人生を生きてやれとも思います。なので、人生の節目には、兄だったらこうするだろうと考えることが多い。兄は私の原動力なんです。

成蹊大学の工学部に進学したのは、ダイヤ精機を継ぐ気持ちがあったからですか。

頑固な父から、工学部に進まないと学費を出さないと言われていましたので(笑)。会社を継ぐ気持ちはありませんでした。実はファッションデザイナーに興味があって、内緒で服飾系の大学も受けて合格していたんです。でも、兄ならこちらの道を選ぶだろうと成蹊大学の工学部に進みました。大学ではDNAなどの生物化学分野の研究室に所属し、浸透膜の研究をしていました。家業を考えると機械工学なんでしょうが、自分に向いている分野と思ったこと、そして父に対する小さな抵抗ですね。
大学は遊ぶところ、なんて最初は思っていましたが、学生時代は人生の中でいちばんと言えるくらい勉強しましたよ。成蹊って自由なんですけど、自己責任をすごく問われる大学。楽しく過ごしながらも、自分に対する厳しさが身についたように思います。また、論理的に考える姿勢や分析力など、当時の学びは今の仕事にも役立っています。

後悔しない道を歩み続ける。

学生時代は人生でいちばん勉強しましたね。

卒業後は就職されて、ご結婚し、専業主婦になられたんですね。

アナウンサーに憧れたりもしたんですが、結局、父の工場の取引先である自動車部品大手に就職しました。そこで出会った人と結婚し、退職。男の子を出産した時に、自分はもう役目を果たしたと思いましたね。息子が父の後継者になってくれればいいんじゃないかと。
子育て中、ダイヤ精機が経営難になったこともあり、父に請われて従業員となりました。総務をやり、様々な分析をしたんです。私は不採算部門をカットし、5人リストラすることを父に提案しました。そしたら父から「じゃあ、お前が辞めろ」と言われ、私がリストラされたんです(笑)。しばらく専業主婦に戻ったんですが、再び工場に呼び戻された。そこでまた削減案を出したら、今度も私がリストラ。だから、私はダイヤ精機を2度クビになっているんです。

お父様が急逝され、事業を引き継ぐ決意をなさった。ご主人も小さな息子さんもいる中で、迷いや不安も大きかったのでは。

父の最期に「会社は大丈夫だから」と言って安心させましたけど、「私が継ぐから」という意味ではなかったんです。ちょうどその頃、夫がアメリカに赴任する話もあり、父亡き後の会社をどうするか本当に悩み抜きました。アメリカはまたチャンスがあるかもしれない、でも、社長を継ぐことは後から望んでもチャンスはないだろう。後悔しない道を歩もう、そう考えて決断しました。もちろん、決めたら後戻りはできないし、責任が果たせるのか不安はありましたよ。正直なところ、3年もてばいいと思いましたね。そうすれば、ダイヤ精機の娘も3年頑張ったんだって周りが見てくれる。それで駄目だったら駄目でしょうがない、そんな気持ちでスタートしたんです。

考え方次第で、ピンチだってチャンスになる。

突然に経営者となり、いろんなご苦労があったかと思います。また、その後、リーマンショックや東日本大震災などの危機も乗り越えられて・・・

突然に経営者となり、いろんなご苦労があったかと思います。また、その後、リーマンショックや東日本大震災などの危機も乗り越えられて・・・

苦労ってあまり感じたことはないんです。ただ一番つらかったのが、経営改革に伴う社員のリストラですね。自分の中で未だに引きずっています。全社員から大反発を受けた時には、孤独感に陥りました。けれどもシェークスピアの「人には幸も不幸もない、考え方次第だ」という言葉に救われました。社員がぶつかってくるのは、会社を良くしたいって思ってくれているからだ。そんなふうに考え方を変えたら、なんて自分は幸せなんだろうって思えてきたんです。 私、ピンチって好きなんですよね。ピンチが来ると、あ、またここで自分が成長できるチャンスが来たなと。きっと来年、私はこの出来事を笑って話しているって想像するんです。そうすると、あまり落ち込まないというか、戦うぞという意欲が湧いてきます。

自分の道は、自分で選ぶことが大事です。

経営者として何かポリシーみたいなものはございますか。

常に思っているのは、私は社員たちのフォロワーであるべきということです。立派な製品を作り上げてくださるのは社員たちであって、その作った物に対してお客さまが価値を認めてお金を出してくださる。私はたまたま社長という立場で、社員の皆さんが稼いだお金を管理して分配するという役目を担っているだけ。だから、社員が働きやすいように環境を整えたり、フォローしたりすることが私の役目だと。社長になった当初から、社員と交換日記をして意見や思いをすくいあげたりしながら、どうすればもっと働きやすい、楽しい職場になるか追求してきたつもりです。とにかく、笑顔の絶えない会社にしたい。社員たちの笑い声が聞こえてくると幸せを感じます。

日本のモノづくりが輝く姿を、また見たい。

ダイヤ精機さんは精密金属加工で素晴らしい技術をお持ちですが、「モノづくり日本」がこの先も輝きを放っていくには何が必要と思われますか。

ひとつは、中小企業が事業継承のピークに来ているので、世代交代や事業統合といった形で企業数を減らさないこと。これが日本にとって実に重要な課題ではないかと考えています。
もうひとつは、グローバル化する中で「自分たちの製品はすごいんだぞ」って、もっと声を大にして伝えることだと思います。そのためには自分たちの強みを知らなければならない。特に製造業は自己アピールが苦手なんじゃないかな。日本だけ見ると少子化で生産数が減っていくように思われがちですが、グローバルに見ると人口は増加していますし、製造業はまだまだ盛ん。やはり、世界を相手にできるような力を付けていかなければならないと思いますね。
私がメディアに出始めた当初は、同業者などから目立ちたがり屋だとか言われました。でも何のためにやるのかということをしっかり持っていれば、メディアに出たって、講演をしたっていいと思う。ビジネスにおいては、日本人にありがちな目立つことへの嫌悪感をなくし、もっと自己主張をした方がいいのかなって思っています。

日本では女性の経営者はまだまだ少ないですよね。

女性も働くのが当たり前の時代になってきたけれど、世界的に見ても女性経営者は少ないし、しかも製造業となるとなおさらです。女性はそれぞれ抱えてる悩みが違うんですよ。結婚しているかしてないか、子供がいるかいないか、介護があるかないか。相談できる人を探すことすら難しくて、それも社会進出の障害の一つだと思うんです。そういうことを解消していかなければならないと思い、国の支援などをお願いしているところです。ただ、何だって始めてみると何とかなるものなんですよ。女性の方々には勇気を持って果敢にチャレンジしてほしい。

日本では女性の経営者はまだまだ少ないですよね。

経営、講演、執筆など、ご多忙な毎日を送っていらっしゃいますが、どのように気分転換されていますか。

体を動かすことが好きで、クラシックバレエをやっています。それと最近はまり始めたのが、神社仏閣を巡っての御朱印集め。日本の歴史に興味がありますし、ここまで来られたのは皆さまのおかげだと神仏に感謝できますし。お城巡りも好きなんです。講演で各地に行った時に、お城の天守閣に一人で登るんですよ。そこで景色を見渡して、「天下取ったるぞー!」って大声で叫んで、そそくさと帰る(笑)。気分いいですよ。

諏訪さんも会社もお元気で、お父様もご安心なさっていることと思います。これからどんな目標に向かっていこうと思っていらっしゃいますか。

経営者の立場で言えば、社員が大田区に一戸建てを建てられるような会社にしたい。個人的な立場で言えば、命尽きる時に「ああ、楽しかった」って言えるような人生にしたい。そして、日本の製造業がもう一度輝いている姿をこの目で見たい。それが夢ですね。
昔の私は、二代目に生まれたからというような、敷かれたレールの上に乗っかる生き方が嫌で。でも、そのレールは自分自身のレールを敷くための準備だった。それに気づけていなかったんです。運命を自分の中で使命として捉えることができた時、私の中で変化が起きました。与えられたもの、使命というものを、自分らしく果たしていこうと強く思っています。
父には寝たきりでもいいから、私が社長に就任するところまでは見てほしかった。もし会うことが叶うなら、ありがとうって伝えたい。
でも、きっと「お前はまだまだだな」と言われるでしょうね。

自分の道は、自分で選ぶことが大事です。

「和」に込めた思いは、日本の力、人と人の足し算、コミュニケーションの調和など。みんなで一つになって、夢を追いかけていきたい。
(諏訪氏)

Works of Takako Suwa - 著書紹介

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主婦から社長になった2代目の10年戦争
町工場の娘
発行元 日経BP社
町工場を営む家の次女として生まれ、32歳の時に突然、主婦から先代の後を継ぐことになった女性経営者の奮闘記。
幼少期に亡くなった兄の「生まれ変わり」として育てられた。「ひょっとして私が会社を継ぐのかな...」という"予感"はあったが、大学卒業後は父の会社(ダイヤ精機)の取引先でもあった自動車部品メーカーに就職。その後、父に請われ、ダイヤ精機に入ったが、経営方針の違いから、2度のリストラ宣告を受ける。しかし、32歳の時に父が急逝し、突然社長を継ぐことに。バブル崩壊の余波もあって赤字経営が続く中、再建の舵取りをいきなり任され、以後、様々な壁にぶつかりながら、「町工場の星」と言われるまでに社業を復活させた。生産管理へのIT導入、「交換日記」による若手社員との対話など、「情と論理」のバランスの取れた、女性ならではの経営手法が注目され、ダイヤ精機には今や全国から見学者から訪れる。その2代目社長が初めて筆を取り、父や兄への思いを綴りながら、社長になってから10年の軌跡を克明に振り返る。
「NHKドラマ10」にてドラマ化されました! NHKドラマ10 『マチ工場のオンナ』
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「女将」がつくる最強の職人集団
ザ・町工場
発行元 日経BP社
「町工場の星」と呼ばれ、メディアでも注目を集める女性社長の奮戦記第2弾。
創業者である父の急逝を受け、主婦から社長になった町工場の2代目。リーマンショック後、業績低迷が続く会社を突然継ぐことになった彼女は、どのようにして社業を復活させたのか。生い立ちから会社再生までの道のりを綴った前作『町工場の娘』に続き、この本では、「職人の技を受け継ぐ人材の育成」にスポットを当てて、10年余りの苦闘を振り返ります。お金もなく、知名度もなく、一時は身売りの危機にさえ陥った町工場が、若者の笑顔が絶えない活気あふれる「ものづくりの現場」に変身した――。その背景には、"素人"からスタートした2代目が知恵と情熱を余すところなく注ぎ込んだ人材育成戦略があります。自らの役割を「相撲部屋のおかみさん」に例える筆者は、若手、中堅、ベテランとどう接し、それぞれのやる気を引き出して、「若者が集まる町工場」をつくり上げたのか。その奮闘ぶりは多くの経営者の共感を呼ぶとともに、リーダーシップ論、コミュニケーション論の"生きた教科書"として、すべてのビジネスパーソンの参考になるはずです。

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