SPECIAL INTERVIEWvol.99

Special Interview 蹊を成す人

パラアイスホッケー 日本代表南雲 啓佑


「日本代表」は大きな喜びであり、大きな責任。


まだ記憶に新しい平昌冬季パラリンピックで、日の丸を背負って戦った南雲選手。
「氷上の格闘技」のイメージとは逆に、人の縁を何より大切にする温かな笑顔で学生時代や競技について語ってくださいました。

プロフィール:
1985年生まれ。成蹊高等学校を経て、2008年に成蹊大学経済学部経済経営学科を卒業。大手非鉄金属メーカーに就職して3年後、転落事故により脊髄を損傷し下半身不随となる。 車椅子バスケやチェアスキーなどの競技経験を経て、2014年にパラアイスホッケーと出会う。パラアイスホッケーチーム「東京アイスバーンズ」に所属。日本代表のフォワード選手として、2016年に世界選手権出場後、2018年2月の平昌冬季パラリンピックに出場。

この雰囲気。母校に帰って来たと感じます。

南雲選手は高校・大学と7年間、成蹊に通われています。久しぶりにいらっしゃって、いかがですか。

やっぱり懐かしいですね。新しい建物もできて変わったところもありますが、全体の雰囲気は昔と変わらない。ああ、母校に帰って来たなって感じます。
そもそも成蹊高校に進んだきっかけは、親の友人が成蹊のOBで、「雰囲気が良くて、自由な校風の学校だよ」と聞いたから。それと、実家は神奈川なんですが、3歳までは吉祥寺に住んでいたんですよ。何か不思議な縁を感じたこともあり、進学先に選びました。通学には2時間ほどかかりましたけど(笑)。

学生時代はどのような学生でしたか。

もともとは目立ちたがりの性分なんですが、あまり目立たない学生だったと思います。高校ではラグビー部に在籍したこともありましたけど、ほんの少しの間だけ。放課後は自分で好き勝手に楽しむような感じでしたね。大学ではバスケットボールのサークル"パンプキン„に所属していました。バスケの後、皆で吉祥寺の街に繰り出して。楽しい思い出です。小中学校時代は野球をしていましたし、体を動かすのが好きなんです。だから、怪我をした後もすんなりスポーツに入れたんでしょうね。

成蹊で学ばれて、何か心に残っていることはありますか。

ひとつは高校の朝礼でやっていた凝念です。今回のパラリンピックの時もそうでしたけど、集中しなきゃいけない時、気持ちを切り替えたい時に、知らず知らずのうちに手を組み、目を閉じているんですよ。体に染み付いているんでしょうね。
もうひとつは「桃李不言下自成蹊」という言葉です。私自身、怪我をして心の底から感じたのが、人と人のつながり、縁の大切さ。自然と人が集まってくる、そんな魅力的な人間を目指したいといつも思っています。

今、お怪我の話が出ましたが、就職されてからすぐの出来事でした。

ええ、就職して3年ほど仕事をした頃、階段から転落して脊髄を損傷しました。リハビリは厚木の方の病院だったんですが、成蹊高校・大学で一緒だった友人が本当にたくさん来てくれて...。特に目立たない学生だったと先ほど話しましたけど、自分が思っていた以上に皆が心配して見舞ってくれた。とてもうれしかったし、元気づけられました。人のつながりって本当に大切なもの、ありがたいものだと痛感しましたね。
下半身不随になって、頑張って生きていくぞと気持ちは前向きでも、やっぱり現実をすんなり受け入れられない部分って未だにあるんです。そんな中で周りの人の励ましや声援はいつも、生きていく上での心の支え、勇気になっています。

intvArticle__img--half01.jpg

退院されて、すぐにスポーツを始められたんですか。

そうですね。体を動かさないと、どんどん動けなくなるというのもありますし。最初にやったのが車椅子バスケで、そのあとに集中して取り組んだのはチェアスキー。一本のスキーでやるんですけど、学生時代にスノーボードをやっていたこともあって取り組みやすかった。パラアイスホッケーとの出会いは、このチェアスキーがきっかけなんです。よく一緒に滑っていた先輩に、「冬だけじゃなく夏にもできることはないか」と相談したところ、パラアイスホッケーを勧めてくれたんです。

氷独特の匂い。その非日常感に惹かれた。

パラアイスホッケーのどんなところに魅力を感じたんですか。

ちょっと体験してみようかなとスケートリンクに行ったんです。そこで感じた氷独特の匂いや冷気がたまらなく新鮮で。今までと違う場所と言いますか、その非日常感にまず惹かれましたね。
それから、「氷上の格闘技」と呼ばれるだけあって選手同士が激しく接触しあう。そういうエキサイティングなところも魅力でした。
あとは、パラアイスホッケー特有のルールです。パラスポーツには通常、ポイント制っていうのがあるんですよ。私のような下半身不随の人、脚を失った人など、それぞれの状態によって2点だ、5点だ、とポイントがつけられ、チームで合計何点にしなきゃいけないというものです。でも、パラアイスホッケーはポイント制がなく、有利不利は関係なく闘う。見方によってはアンフェアかもしれませんが、競技をやる人間からするとフェアだなって思う。このルールにも面白さを感じました。

今回の平昌冬季パラリンピックで、フォワードとして日本代表に選ばれました。

競技を始めたのが、ソチで冬季パラリンピックがあった2014年の夏。キャリアも短いですし、パラアイスホッケーの世界では私は若手の方なんです。自分自身、プレーヤーとしてまだまだ未熟だなと感じていました。そんな中でも、やっぱり代表入りは目標にしていましたし、出ようと思って出られるものではないので、本当にうれしかったです。それと同時に、日の丸を背負うということに、とても大きな責任を感じましたね。

お仕事をしながら日本代表の活動をするとなると、大変だったでしょう。

基本的に代表チームはシーズンごとに活動する体制です。隔週の金、土、日に合宿を重ね、そのシーズンで一回海外遠征ができるかどうか。
2017年シーズンは平昌パラリンピックを前にしていたので、韓国やイタリアに遠征、それからスウェーデンでの最終予選、本大会直前のイタリア遠征など、非常に過密なスケジュールでした。
だから昨年は、正直言って、つらかったです(笑)。月曜日から金曜日までフルタイムで仕事をし、平日は終わってからジムに行き、週末は長野まで移動して合宿練習をする。合宿がない時も近郊のスケートリンクで練習。バリアフリーの施設が限られていることもあって、一般滑走などの終了を待つと、練習を始められるのが夜中の1時とか3時になることもあるんです。
体が悲鳴を上げながらも頑張れたのは、パラリンピックという目標があったから。そして何よりも、応援してくれる人、支えてくれる人がいたからなんです。私の肩書はサラリーマンです。職場の理解があったからこそ、ここまでできた。会社の方々には本当にお世話になって、感謝しきれません。仕事と競技の両立というような偉そうなものではなく、人に支えられてなんとかなったというのが実感です。

成蹊の仲間が、心の支えになってくれた。

そしてパラリンピックの舞台に立った。その時のお気持ちは?

照明のせいなんでしょうか、競技場が非常にまぶしく感じましたし、歓声が今まで経験したものとは全く違う。実際にプレーした時間は短かったんですが、やっぱり別物だなぁと思いました。すごく緊張もして、大舞台で活躍するためには、技術だけじゃなく心も強くないといけないと痛感しましたね。結果的には一勝もできず、チームとしても、私自身としても、まだまだ実力が足りなかったという悔しさがあります。
それにしてもオリンピック・パラリンピックは、テレビを通してではなく、現場で実際に体感しないと分からない魅力がたくさんありました。2年後の夏には東京2020大会があります。その時も観戦者として、あるいはボランティアとして、近い場所で関わりたいなと思っています。

intvArticle__img--half02.jpg

日本が世界の強豪と渡り合うには何が必要だと思いますか。

強豪国はアイスホッケーが文化として根付いています。競技人口も、環境も、圧倒的に違う。そこは簡単に超えられるものではないので、自分たちにできること、実力を鍛えることを、地道に積み上げていくしかない。
それと、もっと若い人がやってみたいなと思う環境作りが必要でしょう。やりたいと思った人に、じゃあどうすればいいのかという道を示してあげる。私もまだまだ未熟な選手ですが、そのへんも頑張っていこうと思っています。

人とのつながりに、いつも感謝。

今後の目標、挑戦してみたいことがありましたら教えてください。

来年2019年に世界選手権がありますので、まずはそこで活躍したい。活躍して、日本チームとして勝ちたい。勝てば盛り上がり、競技人口の増加にもつながり、公の支援体制にもつながっていく。それがパラアイスホッケー選手としての当面の目標です。
もうひとつは、サラリーマンとして活躍すること。車椅子に乗っているからとか、そんなことを思わせない働きがしたい。人とのつながりを大切にしながら、支え続けてくれる会社の方々のためにも、仕事でメダルをもらえるようになりたいと思っています。

パラアイスホッケーとは?

下肢に障がいを持つ人たちのために、「アイスホッケー」のルールを一部変更して行うスポーツです。アイスホッケーと同様のリンクでプレーします。ボディチェック(体当たり)もアイスホッケー同様に認められているため、「氷上の格闘技」と呼ばれるほど非常に激しいスポーツです。

①使用する道具

「スレッジ」と呼ばれるスケートの刃を二枚付けた専用の"そり"に乗り、左右の手にスティックを一本ずつ持ってプレーします。スティックにはアイスピックとブレードがついており、"漕ぐ"動作で前に進み、ブレード部分でパックを操り、パスを出したり、シュートを放ちます。

②メンバー

ベンチ入りは1チーム15名で構成され、リンクに出られるのは6名のプレーヤーとなります(3人のFW、2人のDF、1人のGK)。交代は随時可能で、ゲーム進行中に交代することもあります。体力消耗が激しいことと、集中力のあるうちに交代するため、交代頻度は高いです。

③ゲーム

1ピリオド15分で、3ピリオドの計45分行います。リンク中央のセンターアイススポットで、レフェリーの落としたパックを両チームが奪い合うフェイスオフから始まります。選手はスティックを使ってパスをしながら、最終的にシュートを打ち、相手チームのゴールにパックをいれようとします。パックが相手のゴールラインを完全に超えると1点が入り、ゴールライン上に少しでもパックが重なっている場合は得点にはなりません。

パラアイスホッケーの歩み

日本におけるパラアイスホッケー競技は、1998年長野パラリンピック大会開催に向け、1993年に日本身体障害者スポーツ協会(現 公益財団法人 日本障がい者スポーツ協会:JPSA)がノルウェーより講師を招き、スピードレースとアイススレッジホッケー(パラアイスホッケー)の講習会を実施したことに始まります。その後、1994年10月に日本最初のアイススレッジホッケー(パラアイスホッケー)競技組織「長野スレッジスポーツ協会」(長野サンダーバーズ)が発足したことで、本格的に競技普及・強化活動がスタートしました。

成蹊大学は、東京オリンピック・パラリンピックを応援します!

成蹊大学は、公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会と「東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会における大学との連携協定」を締結しています。学内でも様々な事業(オリンピック・パラリンピック学習事業、ルーマニア交流事業、上級ボランティアガイド養成事業、地域情報多言語化事業)がスタートしており、イベントやボランティアを通して学生・教職員が一緒になってオリパラを応援しています。

活動の様子は大学ホームページでご報告しています!

フォトギャラリー