SPECIAL INTERVIEWvol.102

Special Interview 蹊を成す人
JICA(独立行政法人国際協力機構)職員 小林 千晃

JICA(独立行政法人国際協力機構)職員小林 千晃


明日どこにいるか
分からない状況に自分を置く。


南米やアジアの開発事業などに貢献し、2019年にはブラジル政府から国家勲章を受章した小林さん。
異国への興味を深めた高校時代、成蹊で文化人類学のフィールドワークに挑戦した大学時代の経験を糧に、国際開発の世界で活躍しています。

世界を舞台に活動されてきた小林さん。きっかけは、中高生の頃に遡るそうですね。

埼玉県新座市の中学校に通っていた2年生の夏休み、英国とフィンランドを約3週間訪問したのが初めての海外経験でした。市の青少年海外派遣団として、ホームステイや学校訪問、友好親善のイベントに参加したんです。埼玉県立の高校に上がってからは「AFS※」の留学プログラムを通じ、南米チリに留学。チリでの生活は日本と全然違って、非常に刺激的で面白かったですね。


※AFS(公益財団法人AFS日本協会)/異文化学習・留学の機会を提供する世界的な教育団体。

英語圏ではなく、チリを留学先に選んだのはなぜでしょう。

「日本から一番遠い国、まったく知らない国に行ってみよう!」という未知へのあこがれから、好奇心の赴くままに志望したんです。同じ南米でも、ブラジルやアルゼンチンには「サッカーが強い」という印象がありましたが、チリは「細長い国だなぁ」ぐらい(笑)。「一から知るには良いかも」と、選びました。こうして高校1年生の終 わりから1年間、チリ南部・プエルトバラスという街で、ホームステイしながら現地校に通いました。そこで、自分の考えがいかに「偏見」に満ちていたかを思い知りました。

「偏見」に満ちていた、とは、どういうことですか。

まったく知らない地域に行ってみたいと思いながら、私は日本で漠然と「南米=開発途上国」というイメージを植え付けられていました。留学前は、「食事は不衛生だから生ものには注意」とか「教育レベルが低いから勉強が遅れる」などと周囲に心配されたものです。ところが実際にチリで目にしたのは、発展の真っ最中、著しく成長する 様子でした。ホストファミリーやクラスメイトが、家庭や学校だけではなく、社会の中でもいきいきと活動している姿も印象的でした。さらに、チリでは日本の支援によってサケの養殖事業が展開されており、地球の裏側で行われていた国際協力を初めて知ることに。自分の目で見て行動しなければ、理解は進まない。留学中にそう実感したことが今の自分を形作っています。

南米のことをもっと学びたい。
フィールドワークに没頭した大学時代。

帰国後は、成蹊大学の文学部国際文化学科に進学されます。

南米のことをもっと知りたいという気持ちもありましたし、留学で体験した異文化理解を、学問として初歩から系統立てて学んでみようと思ったんです。成蹊大学には、自由にやりたいことを追いかけさせてくれて、教授陣が温かく見守ってくれる環境があると思います。授業以外の時間にはアルバイトを掛け持って、お金が貯まると海外の旅へ。『地球の歩き方』を片手に、バックパックで南米をバスと電車で一周したこともあります。今のようにインターネットですぐに調べられる時代ではなかったので、まさに冒険でしたね。所属していた文化人類学のゼミの綾部真雄先生によるタイの実地調査に連れて行ってもらったこともありました。

自分の研究としては、ボリビアとペ ルーに多くが居住するインカ帝国の末裔として有名なケチュア族と、山岳民族として知られるアイマラ族という少数民族に着目していました。少数民族と言っても、ケチュア族とアイマラ族を合わせた人口は1000万人以上とも言われています。彼らが出稼ぎなどで都市に移住する過程で、文化や生活様式がどう変容し、迎合していくのかを調べようと思ったのです。具体的には、結婚や葬式、贈与などの儀礼、習慣がどう変わっていくのか。都市に入ると固有の文化は薄まりますが、まったく無くなるのかと思ったら、そうではない。村と都市の文化をミックスした新しい文化を作り出していたんです。

それは興味深い内容です。文化人類学は現地調査が必須ですよね。

当時あった学内の研究資金支援制度を活用し、奨学金をいただいて、春休みにペルーとボリビアにフィールド調査に向かいました。現地でホームステイをしながら、都市と農村それぞれのケチュア族とアイマラ族にインタビューをして文化の変容過程を調査。合計で約1カ月半、調査を重ねました。

文化人類学のフィールドワークで重要なのは、いかに観察者として俯瞰的に社会と文化の概観を理解するか、また、いかに観察研究対象の人たちと仲良くなるか。綾部先生からは「まずは子どもと仲良くしろ!」と教わりました。子どもに手品を見せて距離を縮め、次にその親と仲良くなる。そんな過程を繰り返していくうちに、いつの間にか研究にのめりこんでいました。

綾部先生とゼミの仲間と共に調査研修で訪れたタイ

その後、JICA(独立行政法人国際協力機構)に入構されます。

就職において重視したのは世界、特に南米と日本をつなげる仕事。「どこの会社に入りたい」ではなく、「何がやれるか」「自分には何が求められているか」。そう考えた時、世界と日本をつないで、両者をよくするために働くことができるJICAに入構を決めました。

入構後1年目に駐在されたインドネシアでは、どのようなお仕事を。

JICAは国際「協力」の名の通り、一方的に援助を行うのではなく、相手国の政府や組織と協力し、時には他国の援助機関や国際機関と協調しながら一緒に目標を達成していくのが使命。そんな仕事のやり方を体感するために、新入職員は皆海外に出て研修します。私が研修を行ったインドネシアで特に思い出深いのが、国立公園の管理を通じた環境保護のプロジェクト。公園の内外に住む住民たちと協働しながら、森林や生物資源をどう守っていくのかを模索しました。そこで実践したのが、熱帯雨林を果樹に変えていく事業です。動物の生態系を守りつつ、果実がなるおかげで現金収入も生まれる。森林保全と現地の人々の収入の両立を考えました。

2006年から10年にかけては、東南・南アジアなどを対象に防災協力事業を担当されます。

2004年のインド洋大津波を機に、津波や地震の対策を立てようという機運が盛り上がりました。日本はこうした災害を乗り越えてきた国ですから、ノウハウがあります。そこで国土交通省や気象庁と協力し、インドネシアやスリランカなどインド洋大津波の被災国で防災機関の立ち上げに加わりました。

津波・地震に加えて、フィリピンのマニラ、インドネシアのジャカルタといった東南アジアの大都市は洪水に脆弱でもあります。大河川の下流域にある街をいかに守るか。堤防や排水場をどこに造るか。費用と期間の調整......。そういった長期の洪水対策計画を策定する手助けをしました。私は学生時代、土木の世界とはほど遠い「ド文系」でしたが、日本の専門家と協働しながらその知見を直に学び、防災が国の発展に直結することを実感。相手国の技術者と共に仕事に打ち込みました。

ブラジル駐在時にも東南アジアでの勤務経験が役に立つ。インドネシアとタイの外交官の友人と

いつの日かブラジルの辞書に「防災」の言葉を。

2010年からはブラジル駐在。念願の南米暮らしとなりましたね。

第一印象は「とにかく巨大な国」。日本の22.5倍の面積で、人口は約2億人、世界各地から集まった移民が作り上げた多文化と多様性を有しています。ブラジルでは当時、リオ五輪の開催が決定して経済が最高潮を迎え、日本からの投資も好調でした。そこで私は、ブラジルの成長を加速させられるよう投資基盤整備の国際協力事業に関わりました。駐在した約4年の間には、世界的な環境、貧困、災害等の対策会議「リオ+20」や、サッカーW杯といった大イベントが開催されるなどの明るい話題の後、2013年には、後に大統領弾劾につながる大規模汚職事件が発覚し、ジェットコースターのような怒涛の時期。そんな中、日本の東日本大震災と時を同じくした2011年に、リオデジャネイロで大規模な土砂災害が発生しました。

土砂災害を受け、ブラジルの防災体制の近代化を後押しするプロジェクトを始動し、奔走される毎日だったと。

日本の防災協力事業の経験を今まさに生かす時という思いで、ブラジルにおける防災政策・体制の近代化を支えるプロジェクトを形成し、運営しました。ブラジルはそれまで、災害発生後の対応に重点をおいていましたが、2011年に発生したブラジル史上最大の土砂災害以降、災害予防を軸とした政策に切り替えるため、防災先進国である日本に支援を要請した経緯があります。日本の国土交通省から派遣された専門家も加わり、連携が希薄だったブラジルの防災に関する省庁間で100回を超える作業部会を実施。洪水や土砂災害のリスクを示すマッピング方法や、早期警報の発令基準、災害リスクを考慮した都市計画などが策定され、現在は運用が開始されています。

2014年にブラジルから帰国した後は、南米各国の包括的な国際協力の戦略を立案する立場に回り、現在は三井物産株式会社に出向中。民間投資が経済開発のエンジンになっている国々を相手に、開発途上国の課題をビジネスに変える仕事に従事しています。昨今は持続可能な開発目標「SDGs」も普及して、国際協力とビジネスにおいても欠かせない視点となっています。

2019年にはこれまでの災害対策の貢献をたたえられ、ブラジルから国家勲章を授与されました。どんな心境でしたか。

私個人の功績ではなく、ブラジルの防災事業に関わった多くの関係者の貢献をたたえての勲章と理解しています。素直に嬉しく思う一方で、「もっと頑張らなければ」という思いも強いです。ブラジルで近年、「津波」と同じように「防災」という言葉が日本語読みのまま浸透してきたことも、感慨深いですね。いつかブラジルのポルトガル語辞書に「防災」という言葉が載る日がくることを願っています。

ご自身のモットーやこれからの目標をお聞かせください。

開発途上国の国造りに長年携わっていますが、その経済成長や環境変化は言葉では言い表せないほどダイナミックでスリリングです。近年はICTの発達により開発途上国から世界に発信される情報やモノも急増しています。私が現在出向している総合商社のビジネスの相手も多くが開発途上国ですし、そもそも先進国と開発途上国という概念上の括りさえ不要で、互恵関係を持つパートナー国といった方が正しいと思っています。そんなパートナー国と学びあい、交流しながら相互発展を遂げていくことが、今後の国際協力の肝です。

「明日どこにいるか分からない状況に自分を置く」。これは私が大切にしている考え方です。パートナー国と柔軟に協働していくには、自分自身が未知を欲し、かつ寛容に接することが大切と感じています。私は知らない国を見てみたい一心でチリに渡り、南米研究に没頭し、様々な国で国際協力事業に取り組んできましたが、世の中はこれからも、想像もできないスピードで変わっていくと思います。次から次へと未知が襲い掛かってくる今こそ、好奇心を持ってそこに飛び込み、状況に応じて柔軟に、最善を尽くす。これからもそんなふうに生きていきたいと思っています。

小林さんの仕事や生活に、成蹊での学びはどう生かされていますか。また、後輩の皆さんに伝えたいことは。

自分の将来の軸を定めるにあたり、大学の4年間でゆっくり考えたり、トライ&エラーを繰り返せたことはとても貴重な経験です。成蹊はゼミが活発ですが、皆と議論を創り上げていく基礎を学べたことは、今も様々な場面で役立っています。

皆さんに伝えたいのは、先進国と開発途上国を分けるように「日本国内」と「世界」を切り分ける考え方をやめてみては、ということ。グロー バル化が進む現代では、日本と世界の出来事は様々な形でリンクしていますし、私が従事する国際協力も商社の仕事も、日本と世界がつながっているからこそ成り立っています。偏見を持たず、変化を大いに楽しむ学生時代を送ってほしいなと思います。

ブラジルの民間防衛に尽力した個人や組織に贈られる国家市民防衛勲章を受章

小林千晃さんの"蹊の成し方"

1982年
東京都渋谷区生まれ。幼少期は恐竜に熱中する。

1989年
埼玉県朝霞市の公立小学校入学。その後、同県新座市の公立小学校に転校。やんちゃな少年時代を過ごす。

1995年
新座市の公立中学校入学。2年生で海外派遣団に参加し、フィンランド、英国の姉妹都市を訪問。

1998年
埼玉県の公立高校入学。1年生の終盤からチリ南部プエルトバラスの現地高校に1年間留学。JICAが行ってきたサケ養殖の支援や日本企業が参画する養殖事業を知り、地球の裏側でも日本の協力が行われていたことに驚く。

2001年
成蹊大学文学部国際文化学科に入学。文化人類学のゼミに所属。指導教授は綾部真雄助教授(当時)。3年生の時に研究奨学金プログラムを活用し、ペルー、ボリビアのフィールド調査を実施し卒業論文を執筆。国際交流会の会長も務める。

2005年
JICA(独立行政法人国際協力機構)に入構。インドネシア駐在。

2006年
東京勤務。主に対東南アジア、南アジア向け防災協力を担当。

2010年
ブラジル駐在。2011年の大規模土砂災害以降、防災体制の近代化に向けた協力プロジェクトの組成、実施を担当。

2014年
東京のJICA本部で南米諸国を対象とした課題分析、国際協力事業の戦略や計画立案を担当。ブラジル駐在時に関わった防災体制近代化を今度は東京側から支えたり、チリのサケ養殖産業を脅かす赤潮の対策事業を日本・チリ政府協働で計画したりした。

2019年
ブラジルと日本の関係強化や防災の協働に貢献したとして、ブラジル政府より国家勲章を受章。現在、三井物産株式会社に出向し、開発途上国の経済開発における産官連携を推進中。

-Column-
JICAの取り組みとSDGs

SDGs(持続可能な開発目標)とは、2015年に国連で採択された、持続可能でよりよい世界を目指す国際目標で、日本も参加しています。2030年までに達成すべき17の目標と169のターゲット(具体的目標)から構成され、JICAが開発途上国で取り組んでいる事業の多くが目標の達成に寄与しています。貧困削減や不平等の解消だけではなく、気候変動への対応、再生エネルギー活用への転換、環境保全など、私達の社会にも関わる項目が多数含まれています。

■ ■ ■

小林さんが南米で携わったプロジェクトも、SDGsの取り組みと関わっていま す。例えば、ブラジルでの防災事業。2011年にリオデジャネイロで起こった土砂災害は、都市化が進み従来人が住まなかった災害リスク地にも人口が増えたことや、気候変動が原因と考えられています。SDGsの目標「11 住み続けられるまちづくりを」「13 気候変動に具体的な対策を」が定められた背景と関連していて、多くの自然災害に見舞われる日本にとっても大きな課題です。

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チリでの赤潮対策事業もその一つ。2016年にサケの養殖産業を脅かす赤潮が発生したことを受け、JICAと三井物産の連携により実施しています。JICAが過去数十年にわたって支援してきた漁業関係政府機関との人脈、サケ養殖に関する知見、三井物産が培ってきたビジネスノウハウを連携し、赤潮の発生原因の究明や分布予測、早期予測システムの構築に取り組んできました。同事業は、SDGsの目標「14 海の豊かさを守ろう」「17 パートナーシップで目標を達成しよう」に合致しています。


小林千晃さんがガイドする「南米の魅力」


日本からはるか彼方にある南米大陸。その環境や文化について、なかなか想像がつかないことも多いかもしれません。今回は小林さんが訪れた思い出深い国々について、その魅力とエピソードを語っていただきました。

ブラジル
経済発展著しい「るつぼの国」で、災害軽減に心血を注ぐ

20以上もの国から集まった移民の子孫たちが「るつぼ」の文化を形成。世界最大・約200万人の日系人が暮らす、親日国でもあります。サンバやサッカーといった陽気な文化で知られますが、アマゾンをはじめとした雄大な自然、現代芸術や文学、移民が持ち込んだ美味しい料理など、多様な魅力にあふれています。南米大陸最大の都市サンパウロ、五輪開催都市のリオデジャネイロが有名ですが、私が住んでいたのは、1960年に完成した世界でも有数の新しい首都・ブラジリア。経済成長に伴って課題が山積するブラジルで、日本の知見や技術によって諸課題を解決に導くことが私の役目でした。とりわけ土砂・洪水災害の被害軽減に向けた事業には心血を注ぎました。駐日大使館とも深い関係を築くことができ、共に働いた仲間とは、生涯の友になっています。

山車とダンサーが華やかなパレードを繰り広げる、リオのカーニバル

2013年にリオデジャネイロで開催された国際防災セミナーに登壇

ブラジリアの官庁街

駐日ブラジル大使と

アルゼンチン
美しい街と、広がる大自然 美味しい牛肉に舌鼓

大学の卒業旅行で初めて訪れ、JICAに入ってからもたびたび訪問しています。「南米のパリ」と称される美しい首都・ブエノスアイレスは、世界有数の大都市です。特に19世紀末までは世界の富の集積地で、この頃に世界三大オペラハウスの一つコロン劇場が建設されたり、情熱的なアルゼンチンタンゴが誕生したりしています。中~北部は大穀倉地帯で、緑豊かな草原地帯パンパが広がります。北部の景勝地「イグアスの滝」も有名ですね。この国もブラジルと同様に移民で形成され、首都にはイタリアとスペイン、日本からも多く移り住み、市内には日本庭園があるほどです。
名物と言えば、良質な牛肉。隣国ブラジル駐在中は、これを求めて「週末旅行」に 出掛けたことも。仕事では、この国の自動車生産を支える人材育成を行うプロジェクトに、日本企業と協力しながら関わりました。当時(2016~2017年)は首脳レベルの往来も多く、会談の対応などといった重要な仕事も数多く担当しました。

名物・牛のあばら焼肉「アサード」

ブラジルにもまたがる世界遺産イグアスの滝

ブエノスアイレスにある、劇場を改造した書店

ペルー
インカの末裔研究で滞在 自然豊かな美食の国

大学時代、インカ帝国時代の末裔・ケチュア族について研究するために滞在。南米大陸をバックパックで1周した時にも訪れました。ペルーは何と言っても、南米を代表する「美食の国」。山海の幸がじつに豊富で、日本食とも通じるところがあるように思います。私の好物は魚介類のマリネ・セビーチェ。白身魚にタマネギ、トマトを加え、レモン汁で和える爽やかな味わいの逸品です。
観光立国ペルーでは、マチュピチュがあまりにも有名ですが、玄関口の街クスコも、市街地が丸ごと世界遺産となっていて見どころ満載。マチュピチュの麓アグアスカリエンテスには温泉も湧いています。海もあれば高度4000メートル超級の山もあり、アマゾンの森林も有するために、自然探訪には最高の環境です。私もいくつかの国立公園を訪ねてみましたが、マチュピチュまで丸3日かけて歩いたことは忘れられない思い出です。

大学時代、フィールド調査に協力してもらった方々と記念撮影

こちらも大学時代に訪れたマチュピチュの遺跡

チリ
世界へ羽ばたく契機になった、ワインとサーモンの国

高校生だった1999~2000年に留学。私の人生を世界へと羽ばたかせてくれた国です。南北約4000キロの長大な国土 は、地方により気候や文化が大きく異なります。寒暖差の激しい中部はチリワインの一大生産地。もう一つ有名なのはサーモン。70年代まで生息地ではなかったのですが、今や生産高で世界第2位に躍り出ました。その快挙には、日本のJICAによる協力が大きく貢献しています。私の留学したプエルトバラスの近くにある州都・プエルトモント市は、そんなサーモン養殖の要となっています。留学当時は経済発展が著しい新興国そのものでしたが、今はすっかり落ち着き、成熟感あふれる国に。高校時代にお世話になったホストファミリーや同級生とは今も仲良しです。ブラジル駐在時には、約10年ぶりにホストファミリーに再会するため再訪しました。

大統領官邸(右)がある首都・サンティアゴ

留学時代、ホストファミリーと

アンデス山脈上空からの景色

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