SPECIAL INTERVIEWvol.104

Special Interview 蹊を成す人
三菱商事株式会社 デジタルイノベーションセンター長 平竹 雅人

三菱商事株式会社 デジタルイノベーションセンター長平竹 雅人


人と人のつながりを大切に、
意志を持って道を拓く。


三菱商事で海外のエネルギー事業投資に従事し、国際機関や政府機関への出向を経て、現在はデジタル関連の新事業でリーダーを務める平竹さん。学生時代には、成蹊大学英語会の会長や、日米学生会議の実行委員長を務めました。その頃から培われた行動力とネットワークが、平竹さんの現在をつくっています。

商社に勤め、世界をフィールドに活躍されてきた平竹さん。どのような少年だったのですか。

東京出身で2歳から大阪、名古屋で育ち、高校生になり武蔵野市に戻ってきました。小3から「ボーイスカウト」に入って、自力で火を起こしたり、地図とコンパスだけを頼りに、長時間、歩き続けたり。思えば、この頃に「生きていく自信」のようなものを培ったのかもしれません。一方で、同じく商社パーソンだった父の、仕事関連の書籍や資料を読むことも好きで、早い時期から「総合商社」の面白さを感じていました。

成蹊大学を志望された契機は何だったのでしょうか。

経済学者だった祖父の影響もあり、経済学を志すようになりました。そこで大学進学の際に、成蹊大学で開発経済学を教えていた廣野良吉先生のもとで学びたいと思ったのです。廣野先生は国連開発計画(UNDP)事業政策評価局長として「人間開発報告書」をつくり、国連政策の大きな転換点を生み出した方。強力なグローバルネットワークをお持ちで、90歳を超えた現在も精力的に活動されています。大学入学後は、先生の主宰する国際経済経営研究会に1年次から参加してお世話になりました。廣野先生は開発に携わるなかでも、その国々に根差す文化を重んじられていました。「環境、経済、社会に加えて文化の持続可能性が大切。文化にはすべてをつなぐ力がある」との言葉が忘れられません。

学業以外に、大学生活で打ち込んだことはありますか。

世界に対して関心がありましたので、成蹊大学英語会(ESS)に入りました。学園の史料館には、旧制成蹊高等学校出身の槇原稔さんが戦後すぐに行われた英語弁論大会で獲得したマッカーサー元帥杯が置いてありました。それを見て、深い感銘を受けたものです。スピーチによって、人の志が新たになり、皆が良い方向へ動いていく力が生まれる。そんな技術を学び、社会とつながりを持つことに、関心が芽生えました。

3年次にはESSの会長に就任することに。新入生への熱心な勧誘が功を奏し、私が入った当初は30名だったメンバーが4倍に増え、大学で最大規模のクラブに成長しました。お揃いのパーカーを着て、吉祥寺駅まで闊歩したことを思い出します。当時の顧問は、清水護先生。昔の成蹊卒業生ならよくご存じの「名教師」で、いつも静かに行動で道を示してくれました。

ESSの活動を通して私が掲げていたのは、「Where there is a will, there is a way」という言葉です。「意志あるところに道は拓ける」という意味ですね。どんなに困難な状況にあっても、そんなマインドをしっかりと持つことを大切にしていました。

そうやって過ごしていたある日、友人から誘われて「日米学生会議」に参加することになりました。

スピーチの力に魅せられた学生時代。英語弁論大会の舞台で、仲間たちと。

日米の学生が開催国の都市を巡りながらさまざまな議論を行う、伝統ある国際交流プログラムですね。

1934年に太平洋の平和を学生の力で守ろうと始まった、日本で最も歴史のある国際交流団体です。米国で開催された第44回代表団に選抜され、翌年に日本で開催された第45回の実行委員長を務めました。米国側40名、日本側40名の計80名が一カ月にわたり寝食を共にして、政治、経済、安全保障、環境、ジェンダー、地域文化などの議論を行い、各都市をまわりました。私が実行委員長を務めた当時に首相だった宮澤喜一氏も、日米学生会議のOB。首相官邸へ招いて頂き、会議の開催にあたって記者会見を行ったことは思い出深いです。

資金集めにも奔走し、成蹊大学をはじめ、石坂泰彦さん(当時・松屋銀座会長)ら多くの成蹊の先輩方にもご支援頂きました。学生たちの滞在先となる自治体にも掛け合うなかで、日本政府や各自治体の掲げる政策内容、予算を決める時期やプロセス、決定権を持つ担当者のポストや確認ルートが明確になっていきました。それをもとにメンバーで手分けをして、さまざまな自治体・地域の方々に面会。結果として、数千万円規模のご支援を頂くことにつながりました。この経験から、何かを始める時には徹底的に調べるということを、今でも大切にしています。

すごい額ですね。そうして日米学生会議を成功に導いた後、1994年に成蹊大学を卒業。
三菱商事に入社されます。

入社からはじめの10年間、私はエネルギー分野の担当で、LPG(液化石油ガス)のトレーディングと事業投資に従事していました。そこで当時手がけたのが、上海のタクシーをLPG車に転換するプロジェクト。「上海の空を青くするためには、排気ガス、CO2を減らす必要がある」ということで、約4・5万台のタクシーをLPG車化する取り組みです。日本では、ガソリン車からの代替が急速に進み、タクシーの90%以上がLPG車になっていましたが、中国にはLPG車に関する法律がなかった。そこで、日本の政府資料を中国語に翻訳して、現地で紹介することにしました。担当官庁の部署を調べ上げ、こう質問していったんです。

「LPG車への切り替えを、あなたの責任で決められますか?」
「私では決められません」と、言われたら、さらに問いかけます。
「じゃあ、誰が決められますか?」

これを何度も繰り返して、上海市から北京にたどり着き、ついに国の政策責任者から承諾を得ることができました。それから上海市政府の支援を得て、四大タクシー会社と連携。ガソリン車よりも環境に優しくて、燃料代が安価で、転換コストは短期間で吸収できるなどのLPG車のメリットについて説明し、切り替えへと説得していきました。LPG車を導入するにあたり、当然、LPGを供給するステーションも求められます。どれぐらいの数が必要なのかを計算し、上海最大のタクシー会社と三菱商事で合弁会社をつくり、最初の30カ所のステーション設置を決めたことが、はずみとなりました。この時私は25歳でした。


平竹さんのメッセージが掲載された第45回日米学生会議の冊子。
日米学生会議実行委員会のメンバーたちと。この頃から「ネットワーク」の重要性を実感(一番右が平竹さん)。

入社して約3年で、そこまでの構想力を示し、最初の一歩を踏み出すとは。すごい行動力です。

上海でのLPG車プロジェクトを上司とともに軌道に乗せた後、中国語を本格的に習得することになりました。効果的に学べる場所はどこかと考えた際に、スタンフォード大学が、台湾大学のなかに研究センターを設置していることがわかってきました。「ここなら、短期間で中国語力を上げ、かつ米国のネットワークにも入っていける」と思いました。日米学生会議を経験した私は、あらゆる面において「ネットワーク」がキーワードであると考えていたので、ここに留学することを決めました。約30名いた仲間はスタンフォードのほかにハーバードなどの大学院生、なかには教員などもいて全員アメリカ人。結果として、中国語とともに英語を磨くこともできました。

国際機関や政府機関への出向も経験されたそうですね。

上海に戻って再びLPGプロジェクトに従事した後、米国の首都ワシントンD.C.にある世界銀行の本部に出向しました。CO2の排出権取引市場の黎明期に際して、民間の投資のノウハウを共有してほしいと求められ、持続可能性開発総局の上級執行管理官というポストに就きました。大学時代のゼミの恩師である長岡貞男先生は、かつて世界銀行のエコノミストとしてお勤めでした。思い返せば私は、先生の経歴を拝見した時から、「世界銀行」という組織に興味を持ち、先生からいろんなお話をうかがったものです。実際に世界銀行で働くことになったのは偶然とも言えますが、接点は成蹊時代からあったというわけです。

この世界銀行時代に、福田康夫首相(当時)をトップとする日本政府と環境・エネルギー政策に関して意見交換する機会を持ったことがご縁となり、時を経て2009年から首相官邸に出向することになりました。内閣官房国家戦略室総理補佐として、環境エネルギーおよび外交安全保障担当を務めることに。持続可能な都市づくりを目指す「環境未来都市」構想などに取り組んだことが、現在の仕事にもつながりました。

その後、ドイツへ渡ったそうですね。

ドイツでは、「官民連携による新市場創出」などをテーマに、グリーン化とデジタル化を進めるドイツ鉄道との事業構想や、海底送電線事業に係る政府交渉の支援などに従事。ロシアと西ヨーロッパの間にある北中東欧など計28カ国の地政学的動向を把握する企画業務部長の立場にありました。それらの地域はまさに現在、世界が息をのんで見守っているエリアです。そんなさまざまな国の思惑が交錯する地で痛感したことは、一次情報の大切さです。他国が甚大な事態に直面した時、実際に見聞きした情報をもとに「自分なら、どう行動するのか」を、肌感覚を持って考えることが、真のインテリジェンスだと学びました。万が一、わが国で同じことが起きた時を考えて「当事者意識を持つ」ということが、いざという時に自らを助けることになるし、困難な立場にある相手を助けることにもつながると考えています。

当時三菱商事社長だった小林健・現成蹊学園理事長がドイツにいらっしゃった際にお会いしたことも、印象的な出来事です。別れの際には、健康を祈る「相撲甚句」を朗々と唄いあげてくださいました。はるかドイツの地で、温かなお気持ちに触れるとともに、日本の文化の豊かさを感じました。


成蹊の卒業生は「ジェントル」。それぞれの道で社会に貢献を。

現在は福島県会津若松市で、「三菱商事デジタルイノベーションセンター」のセンター長として勤務されて
います。

データを可視化してつなげることで、地域の課題解決を目指しています。もともと会津若松市は、東日本大震災の復興事業として、環境未来都市構想を掲げ、ICTを駆使したまちづくり「スマートシティ会津若松」に取り組んでいました。2019年、その拠点として「スマートシティAiCT」が設立され、私が勤めるセンターもそのなかに入居しました。私はここで、位置情報などを活用したモビリティインフラプロジェクトの責任者を担っています。地域の生活者、観光客にご協力頂き、その行動パターンを蓄積してフィードバックすることで、地域の良さを引き出し、活性化へとつなげていきます。

その昔、実業家・白洲次郎は、東北電力の初代会長として会津地方の只見水系の水力発電開発のため、ダムを建設しました。その電力によって、戦後日本は復活していくわけです。現在、我々がつくっているのは「データのダム」とも言えます。私も新たな仕組みを会津から生み出す機会を持てたことを、うれしく思っています。

あらためて、成蹊での経験や人脈が、平竹さんの現在にどのように生かされているとお考えですか。

世界銀行や首相官邸での仕事でも、成蹊の先輩に助けて頂くことがありました。成蹊とは生涯のご縁を感じています。私が出会った成蹊の卒業生の方々には、共通している点が一つあります。それは、「ジェントル」であること。彼らの根本には、社会に対して貢献し、コミットし続ける気迫と気品があるのだと思います。

ある先輩から、「noblesse oblige(ノブレス・オブリージュ)」という仏語の言葉を教わりました。「上に立つ者は、それに応じて、果たさねばならぬ社会的責任と義務がある」という、欧米社会における基本的な道徳観です。そのような役割を負った者の責任、つまり、できることは一人ひとり違うけれど、品性を陶冶し、自分ができることをやっていく姿を見せていくという考えが、成蹊の卒業生の根幹にあると思っています。

12年前から、成蹊大学経済学部の「社会理解実践講義(OB・OGが語るビジネス最前線)」で、講師を務めています。自分の学んだことを、今度は母校で後輩たちに伝えていく。これは名誉だと感じています。また、現役生とのやり取りは、いつもとても新鮮で、原点に返る大変ありがたい機会でもあります。

最後に、成蹊学園の後輩に伝えたいことはありますか。

成蹊の良さは、一流の先生方がとても親しみやすい雰囲気で接してくださる、アットホームなところです。学生時代に私が質問に行くと、 すべての先生が、本当に丁寧に教えてくださいました。このような恵まれた環境を大いに活用し、在校生の皆さんには安心して、自分の好きなことを見つけ、それを探求し続けて欲しいと思います。そうすることが、結局のところ、将来、誰かと一緒に新しい価値を生み出す共創力や、時には勇気を持って挑戦する競争力にもつながると思います。さらにこれからは、自分の興味のあることを伸ばしていくことが、社会のためにもなる時代が来つつあります。「自分の好きなことは何だろう」という点から整理して、追及していくなかで、一人ひとりの道を拓いていってほしいです。

自分の興味を伸ばすことが大切な一方で、歴史に学びつつ、文武両道で広い視野を持つことも重要です。そうやって培った「文化」の力が、世界の平和を生み出し、和やかな日々の生活につながる、新しい未来を拓いていくと思います。

Column
母校の講義で自らの経験を語る

Column
母校の講義で自らの経験を語る

成蹊大学の卒業生が週替わりで講師となり、各産業界の実態と将来の展望、求められる人材・人間像について語るのが「社会理解実践講義(OB・OGが語るビジネス最前線)」です。経済学部の講義として開講され、学生それぞれが10年後、20年後の目指すべき社会人像を思い描きます。平竹さんも講師として教壇に立ち、2022年度は「新しい未来を作りだそう~ビジネスによる科学・技術の社会化~」をテーマに、自身のこれまでの経験を交えながら語りました。

平竹雅人さんの
"蹊の成し方"


1969年 四季を愛し、文化を慈しみ、しなやかに力強く生きる「雅な人」になるようにと、古の美意識を伝える『万葉集』にちなんで名づけられた。三井物産に勤務する父親の転勤に伴い、中学生まで大阪、名古屋で過ごす。
1985年 都立武蔵高等学校入学。室内楽団の指揮者を務め、物理部では部長としてレーザーを用いたフォログラフィック・アートを研究。音楽から宇宙論まで、親友と毎日何時間も議論。
1990年 成蹊大学経済学部入学。「成蹊大学英語会(ESS)」に入会し、3年次には会長に。授業や英語会の活動、 日米学生会議、十大学合同セミナー、家庭教師のアルバイトなど、忙しくも充実した毎日を過ごす。
1994年 成蹊大学卒業後、三菱商事入社。アジアでのエネルギートレーディングに始まり、多様な事業への投資や売却などの経験を積む。
1996年 台湾大学内のスタンフォード大学研究センターに留学。中国語を学びながら、交友関係を広げる。その後、香港、上海で勤務。
2002年 中国海南島で、アジアのリーダーが集まるボアオ・アジア・フォーラムに参加。
2004年 米国ワシントンD.C.の世界銀行へ出向。持続可能性開発総局の上級執行管理官に着任し、カーボンファイナンス、気候変動枠組条約等に取り組む。
2006年 米国アイゼンハワー・フェローシップを授与される。世界のリーダーたちと全米をまわり、環境エネルギー分野を中心に、 国務省などの政府高官を含め専門家約400名と面談。
2007年 三菱商事新エネルギー環境事業本部の新規プロジェクト担当マネージャーに就任。
2009年 首相官邸内閣官房国家戦略室総理補佐として、環境・エネルギーと外交・安全保障の分野に従事。
2012年 独国三菱商事企画業務部長としてドイツのデュッセルドルフに駐在。プライベートでは茶道裏千家淡交会デュッセルドルフの拠点設立に尽力。
2019年 三菱商事デジタルイノベーションセンター長に就任。AiCTコンソーシアム(会津若松市)では、理事としてモビリティインフラ領域のリーダーを担当。

いま話題のトピックを平竹さんが解説
DX Digital Transformation 入門

最近よく耳にするようになった「DX」という言葉。平竹さんも取り組むこの分野について、解説します!

DXとは「デジタル・トランスフォーメーション(Digital Transformation)」の略。「Trans-」を「X」と省略する英語圏の習慣から、このような表記になったといいます。直訳すると「デジタルによる(企業・社会の)変革」という意味になります。もともと企業活動における言葉でしたが、最近では自治体をはじめ広く社会全体でDXが重要視されています。注意すべき点として、「パソコンや人工知能などのデジタル技術を使うこと=DXではない」ということです。デジタル技術を「道具」として使い、社会のさまざまな課題解決にチャレンジすることがDXだと思います。

会津若松市での、
DX × モビリティ × 地域コンテンツの
取り組みをクローズアップ!

平竹さんが率いる三菱商事デジタルイノベーションセンターも、DXによって地域の豊かさを引き出すプロジェクトに取り組んでいます。福島県会津若松市で地域の観光ビューローや企業と実施した実証実験をご紹介します。


その分析結果を
・新たな地域需要の創出
・ストレスフリーな移動体験と周遊促進
・地域のファンを増やし、交流人口増加 に向けて活用!

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