SPECIAL INTERVIEWvol.105

Special Interview 蹊を成す人

国連開発計画(UNDP)駐日代表事務所ユース担当コンサルタント天野 裕美


自分の目で見ることで「違い」も「同じ」も実感。
異文化への理解を深め若者のパワーを引き出したい。


「国連で働きたい」「若者を支援したい」という思いを原動力に、さまざまな国での活動に従事してきた天野さん。現地の人々との交流を通して異文化を深く理解しようとする姿勢の原点は、成蹊大学での学びにありました。現在は企業や省庁と連携し、若手社会起業家をサポートするプロジェクトに携わり、ビジネスやSDGsの面から若者支援に取り組んでいます。

青年海外協力隊として渡ったヨルダンで、現地の少女たちと
交流。

天野さんは高校生の時に国際協力の仕事に就きたいと考えるようになったそうですね。

英文科で学んでいた母がホームステイしていた家庭から、毎年クリスマスカードが届いていたんです。それを母が読んで返事を書いているのを見て、「海外の人と交流できるってかっこいいな」と憧れを抱くようになりました。母の影響でキャンプや横田基地見学などの国際交流イベントにもよく参加して、いつか私も海外に行ってみたいという気持ちが強くなりました。

また、人のために役立つことをしたいという気持ちも大きかったです。思い返せば、雲仙普賢岳の噴火やアフリカでの干ばつによる飢饉などのニュースを見ると、現地の人たちのために何かをしたいという思いに駆られていました。

そして、成蹊大学の文学部文化学科国際文化コース(現・国際文化学科)に進学されます。

「国際関係」や「国際文化」について学べる大学を探しました。なかでも成蹊大学は、留学先で取得した単位も卒業に必要な単位として認められるとのことだったので、留学をしても4年で卒業できる可能性があるという点が魅力的だったんです。

成蹊大学の授業では、どんなことが印象に残っていますか。

川村陶子先生の国際関係ゼミで異文化について学んだことです。ちょうど在学中にアメリカで9・11のテロが起こったこともあり、特にイスラム教と他文化の共存については、よく考えていました。そのなかで気づいたのは、国ごとの文化や価値観とは、長い年月をかけて醸成されるということ。だから他者との「違い」については、背景を理解して受け入れようという姿勢が身につきました。その後さまざまな国を訪れましたが、この経験が役に立ち、異文化に対して寛容でいられたと思います。

他には、高田昭彦先生の社会学のクラスも思い出深いです。市民社会やNPOの活動について学ぶことができ、国際協力のあり方について深く考えさせられました。一人ひとりが働きかけることで社会は変えられる。この学びは、国際協力の仕事をしていく上で大きな糧となりました。そして高田先生は地方から出てきた私のことを気にかけてくださり、他の大学院生や先生たちとの会合によく誘ってくださいました。高田先生から紹介いただいて初めてお話しした先生も、私のことをやさしく受け入れてくださって。そんな成蹊のアットホームな雰囲気と、親身になってくださる先生方の温かさが、すごくありがたかったですね。

大学3年生の時には、英・ブラッドフォード大学平和学部に留学されます。

留学に向けて、成蹊大学が提供していたTOEFL講座を受講したり、自分で英会話に通ったりと、英語を猛勉強しました。当時は国際協力のなかでも特に紛争下の子どもの保護に関心があったので、留学先では平和学を専攻しました。国際関係や紛争解決などの授業を取り、平和学の基礎を学びました。

2003年に成蹊大学を卒業し、英・エセックス大学で人権学を学んで修士号を取得されます。

国際協力の仕事がしたいと思いつつも当時は情報があまりなくて、成蹊大学の図書館で唯一見つけた手がかりが、国連への就職について記した一冊の本でした。そこに、国連の専門職員になるためには修士の学位が必須と書いてあったんです。ブラッドフォード大学へ留学中に、どこの大学院に進学するのがいいか周りに相談したら、「紛争下の子どもの保護に関心があるなら人権についても学んだほうがいい」とアドバイスをもらい、さまざまな視点から幅広く人権について学べる、こちらの大学院に進むことにしました。

そうして進学した大学院でヨルダン出身のクラスメートに出会ったことは、私にとって大きな衝撃でした。彼女はヒジャブを被らず、ジーンズ姿で、それまで私がニュースなどの報道から得た中東やイスラム教のイメージとは全く違っていたんです。ちょうどイスラム教と人権について考えてみたかったこととも重なって、「これは現地に行って自分の目で見てみなければ」と思いました。それで大学院修了後に、JICA(独立行政法人国際協力機構)の青年海外協力隊に応募したんです。その時はヨルダンの案件がなかったのでモロッコを第一希望に志願しましたが、保留となってヨルダンでの案件が発生した時に改めて声をかけていただき、2007年からマダバ女子センターで青少年活動に従事することになりました。

「どこの国でも人間は同じ」国際協力は特別なことではない。

自分自身の目でイスラム圏の国を見て、どんなことを感じましたか。

「どこの国でも人間って同じだな」ということを改めて実感しました。子どもたちは遊ぶことが好きで冗談も言うし、いたずらもする。ヨルダンは大家族が多いのですが、老若男女がお互いを思いやり、一人ひとりを大切にしています。そうした光景を目の当たりにしたら、国際協力というのは何も特別なことではなくて、「誰かが困っていたら助けたい」という、人間が当たり前に抱く思いなのだと感じたんです。ただ、その思いが国を超えているだけにすぎないと。


在カタール大使館のスタッフとして、日本文化を伝えるワークショップを
開催。
ダルフールで行ったフィールド調査の対象地域で。

大きな気づきがあったんですね。ヨルダンの青少年活動ではどんな取り組みを?

学校から帰ってきた子どもたち向けに英語や工作、スポーツのクラスを設けて、一緒に勉強したり遊んだり。土曜日には遠足やキャンプなどのイベントがあるので、その手伝いもしました。男子センターのボランティアスタッフと協力して地元の企業や財団から資金を集めて、マダバの街をテーマにしたユース写真コンテストを開催したこともあります。マダバは歴史のある街で、遺跡などの歴史的遺構もたくさんあるのですが、実はそのことを地元の子どもたちはあまり知らないんです。自分たちが住んでいる地域の良さを再発見してもらう機会にもなりましたし、何より子どもたちが自主的に物事に取り組める場として喜んでもらえました。

子どもたちは活発でチャレンジ精神も旺盛で、人の役に立ちたいという気持ちもあるんです。でも、「子ども」だからという制約でチャンスがなくて活躍できずに、フラストレーションを抱えていることもある。特に能力も体力もやる気もある、10代半ばから後半くらいの「大人」に近い若者たちの中には、歯がゆい思いをしている人もいると感じました。数年待てば挑戦できるとしても、能力や体力はもちろん、特に感性は変わってきてしまうんですよね。そうした現場を見て、若者支援をしていきたいと強く思うようになりました。

再び若者支援に携わったのは2013年。スーダン西部・ダルフールのユースボランティア・プロジェクトです。

2012年にUNDP(国連開発計画)のスーダン事務所に国連ボランティアとして派遣されたのですが、最初の1年は若者支援とは別の仕事に従事していました。ただ、機会があれば所属部署の枠にとらわれずに若者を対象にした人権ワークショップなどを開催し、次のステップにつながるような実績を作ろうと頑張っていました。1年が経って、そんな私の姿勢をチームリーダーが認めてくださったのか、ダルフールに若者支援のプロジェクトがあると薦めてくれました。

そうして赴任することになったダルフールでは、大卒者を対象にビジネスと環境に関するトレーニングを行うことで、生計向上をめざすプログラムを実施しました。ダルフールは農村地帯なので、主に農作物の生産を上げるための技術や、野菜や家畜を育てて売るためのマイクロビジネスの手法などを学んでもらいました。参加者がその経験をそれぞれの村に持ち帰って伝えることで、必要としている地域に助けを届けるプロジェクトになっています。若者たちが9カ月間のトレーニングを経て、たくましく生き生きと変化していく様子を見ることができたのは、やっぱりうれしかったです。

2021年にはMBAを取得、さらにUNDP駐日代表事務所で若者支援プロジェクトを担当されています。

MBA課程在籍中、若者とビジネスをつなげる仕事がしたいと考えていたところに、若者の社会起業を推進する「Youth Co:Lab(ユース・コーラボ)」のプロジェクトの人員にちょうど空きができたんです。当時はスイスで暮らしていて、夫の仕事もあるので日本で働くことは難しいなと半ば諦めていたら、コロナ禍で夫の職場がリモート勤務OKとなり、日本に帰国しました。

「Youth Co:Lab」はアジア太平洋地域の28カ国で実施されていて、企業や省庁などとアクセラレータープログラムやビジネスコンテストを開催し、若者の社会起業や社会イノベーションを推し進めることでSDGsに貢献していくプロジェクトです。  今後も若者支援に従事していきたいですし、今よりももっと現場に近い場所に行きたい思いもあります。それと同時に、起業家と企業や大学・公的研究機関などSDGsに関心を持って事業として取り組んでいる組織同士の連帯を促せるような取り組みができたら面白いなと考えています。

予定していた道と違っても、めざす場所に向かっていれば大丈夫。

学生時代から着実に目標を達成されてきた天野さんですが、その原動力はどこから生まれてくるのでしょうか。

これまでのキャリアを振り返ると、すべてが思いどおりに進んできたわけではありません。そんななかで大事にしてきたのは、「これがダメでも、別の方法でやろう」というスタンスです。先ほどもお話ししたとおり、青年海外協力隊を初めて志望した際はヨルダンでの勤務を望んでいましたが、採用には至りませんでした。そこで他の選択肢も視野に入れながら、フランス語を学んだり、インターンシップに参加したりして、別の機会をうかがっていたんです。その時は運よくヨルダン勤務の声がかかりましたが、諦めずに活動し続けたことで道が拓けたと思います。ダルフールへ赴任した時も同様です。第一希望だった平和構築の分野でなくても仕事を受け入れることで若者支援に携わることができ、結果的にビジネスの面白さにも気づけました。

最後に、成蹊学園の後輩や未来を生きる若者たちに向けて伝えたいことはありますか。

やっぱり何かやりたいことを見つけてほしいと思います。それが分からないときは、いろんなことを体験して自分を知ることが大切です。ちょっとでも興味があることはもちろん、興味がないと思っていることにも挑戦してみる。やってみることで自分自身が満足することもあるし、何らかの形で他の人にもポジティブな影響を与えると思います。

 一方で、キャリアパスを固めすぎて「こうでなければダメ」と思い込まないでほしいです。道はまた別のところでつながっていることもあります。むしろ、予定していた道とは違う道を行ったほうがいいこともあったりする。予定どおりでなくても「めざすところに向かっていたら大丈夫」だということを忘れないでください。

Column
出身ゼミの後輩たちに仕事やキャリアを語る

Column
出身ゼミの後輩たちに仕事やキャリアを語る

卒業後も、学生時代の恩師・川村陶子教授と高田昭彦名誉教授との交流を続けてきた天野さん。2022年には川村ゼミにゲスト講師として招かれ、Youth Co:Labの活動や、自身のキャリアについて紹介しました。川村教授は天野さんの在学当時を振り返り、「私のゼミの1期生として、ディスカッションをけん引してくれた存在」と語ります。

左から川村教授、高田名誉教授、川村ゼミの学生たちと
天野さん。

天野裕美さんの
"蹊"


1980年 山梨県生まれ。三人きょうだいで兄と妹を持つ。母親が日本ユネスコ協会連盟のメンバーだったことから、海外へ憧れを抱くように。
1992年 山梨県の石和中学校に入学。バスケットボール部に入り、部活に明け暮れる。小さい頃から関心を寄せていた英語の授業が始まり、英語を使った仕事に就きたいと考える。
1995年 山梨県の駿台甲府高等学校に入学。1年生の夏休みに国際交流プログラムに参加し、米・シアトルでホームステイを経験。この頃、将来は国際協力の仕事に携わりたいと決意する。
1998年 成蹊大学文学部文化学科(現・国際文化学科)に入学。英語の勉強に励み、長期休みには海外旅行へ。4年生の夏にはカンボジアで国際里親制度を支援するNPOのインターンシップを経験。
2000年 念願の留学へ。語学研修を経て、英・ブラッドフォード大学平和学部で平和学の基礎を学ぶ。
2003年 成蹊大学卒業後、英・エセックス大学大学院に入学。子どもの権利と紛争法、社会学を学び、2005年に修士号を取得。
2006年 ベルギーのブリュッセルでインターンシップを経験。国連公用語の一つ、フランス語の研鑽に励む。
2007年 JICAの青年海外協力隊員として、ヨルダンのマダバ女子センターで青少年活動に従事。
2009年 在カタール日本大使館の専門調査員として、アラブ諸国の民主化に関する調査に携わる。広報・文化担当として日本文化を伝えるイベントも企画・実施。
2012年 国連ボランティアとしてUNDP(国連開発計画)スーダン事務所へ。紛争予防平和構築プログラムのコーディネーションユニットを経て、ダルフールに赴任しユースボランティア・プロジェクトに従事する。2015年には国連正規職員に。
2019年 第一子をスイスで出産。ダルフールでの経験からビジネス知識の必要性を感じ、ビジネススクール・ローザンヌで学び、2021年にMBAを取得。
2020年 UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)で若者向けプログラム実施にあたるトレーニング教材づくりに従事。UNHCRの職員やパートナー団体が若者とプロジェクトを行う際に、若者が主体となってプロジェクトを運営するためのトレーニングモジュール作成に携わる。
2021年 UNDP駐日代表事務所に勤務。若者の社会起業を推進するプロジェクト「Youth Co:Lab(ユース・コーラボ)」を担当。

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