マイケル・ジョーダンに憧れて。
バスケに明け暮れた中高時代
中学時代の夏合宿で、指導する面白さに出会う
小学校5年生の時にアメリカから帰国し、成蹊小学校に入学しました。小学校にはバスケ部がなく野球部に入りましたが、スポーツ全般が好きなので野球も楽しかったですね。バスケを始めたのはシカゴにいた時。マイケル・ジョーダンの全盛期で、初めて観たバスケは彼の試合でした。とにかくカッコ良くて「ジョーダンみたいになりたい」と憧れたんです。中学・高校では念願のバスケ部に入り、毎日練習に明け暮れました。朝、授業が始まる前や昼休みなど、時間があれば自主練、放課後は部活、長期休みには合宿。練習はめちゃくちゃ厳しかったですね。
特に中学の夏合宿は忘れられない。群馬県の鹿沢で行われたんですが、朝は山走りからスタートし、食事と昼寝以外の時間はバスケ三昧。本当にキツかったから思い出も鮮明です。今も朝食に出た牛乳とあんぱんの味を思い出せます(笑)。
中学では、ありがたいことに早いうちから試合に出してもらい、3年生の時には都大会で2位に。高校でもバスケは続けましたが、中学引退時には「指導する面白さ」に出会っていました。きっかけは当時バスケ部の顧問だった岩崎洋司先生から「後輩の指導をしに夏合宿についてきてほしい」と頼まれたこと。合宿で後輩を手助けできるのがすごく楽しくて。その経験から「将来、選手として活躍した後は、学校の先生になってバスケを教えたい」と思うようになりました。
バスケ部の練習に明け暮れた成蹊中高第一体育館で、顧問の岩崎先生と再会。
「人としてどうあるべきか」を、教わった成蹊での日々
試合中は全身で、情熱的に選手を鼓舞する。
成蹊ではバスケの技術はもちろん、「人として大切なこと」を学んだように思います。例えばバスケ部の岩崎先生には「連絡をしっかりすること」「謝るべき場面では誠意をもって謝罪すること」「仲間を大事にすること」を叩き込まれました。僕は先生に恵まれていたと思うんです。顧問の岩崎先生はもちろん、各学年で担任だった先生方もいつも僕に向き合ってくれました。やんちゃで勉強が苦手で、好き勝手にふるまう生徒だったはずなのに(笑)。大らかで「好きなことを追求しましょう」という方針だけど、責任はちゃんととらせる。成蹊は自由と責任の所在を学べる場所でしたね。
実はこうした「人としてどうあるべきか」の教えは、今の仕事にも生きています。現在は日本代表チームのアシスタントコーチ(以下、AC)をしていますが、スポーツ一筋でやってきた選手に、社会人としてのコミュニケーションの取り方や、人として大切にすべきことを指導するのも僕の仕事。日頃から先生方の教えを選手にも伝えているんです。
バスケにおいては成蹊時代に「量をこなすことの重要さ」を学びました。現代は「時間をかけずに成果を出すこと」を重視する傾向がありますが、僕自身は「量をこなすこと」が重要だと思っています。努力し続け、ハードな練習をこなしたからこそ得られるものが絶対にある。理不尽な現実に直面した時にも、努力を重ねて鍛えたメンタルが支えになる。「量をこなしてから語れ」が僕の信条です。
試合に出られない選手の苦しさにも寄り添いたい。
挫折から始まった、指導者への道
2022-2024シーズンは、プロバスケットボールリーグB.LEAGUE(Bリーグ)宇都宮ブレックスのヘッドコーチ(以下、HC)を務めていました。学校の先生になるつもりだった僕が、なぜプロコーチになったのか。ここに至るまでには紆余曲折がありました。
高校卒業後は、憧れのバスケ指導者がいた東海大学へ。ところが同期に強豪選手が勢ぞろいし、まさかの入部テスト落ち。いきなりの挫折です。「コーチなら空きがある」と言われ、意気消沈しつつも学生コーチとして入部しました。当初は「いつか選手に」と意気込んだんですが、先輩コーチの退任もあって入部2ヶ月でBチームのHCを任され、大学3年次にはAチームのHCに。がむしゃらに勝利を目指し、日本一になり連覇も果たせました。その後はコーチを続けながら、大学院に進学して教員免許を取得。「成蹊に指導者として戻ろう」と思っていたけれど、卒業が近づくと複数のプロチームからコーチ就任の誘いがあり、迷った末にプロコーチの道に進みました。
ストレスを抱えながら、前進していくのがプロフェッショナル
HCの仕事はチームマネジメント、チームビルディングです。前面に立ってチームのかじ取りをし、すべての責任を取る仕事。一方、ACはチームのトップであるHCがより良い決断を下せるように、コートの外を含むあらゆる場面で手助けをする仕事です。
ACでもHCでも、プロのコーチとして僕が大切にしているのは、チームの一体感を作ること。チームをひとつにまとめ上げるために、フィールドに立っている選手はもちろん、出場機会のないメンバーとのコミュニケーションも欠かせません。誰かがストレスを抱えていそうだなと思えば、二人で話す時間をとったり、食事に連れ出したり。彼らはプロのアスリートなので、技術はもちろん優れています。それでも試合に出られない。その苦しさを僕も大学時代に経験しているからこそ、彼らの気持ちにも寄り添いたいと思うんです。試合に出ている選手にも控えの選手にも同じように接しよう、ということを大事にしていて。ベンチのメンバーも声を出し合い、チームが同じ方向を向いている時のパフォーマンスにはいつも驚かされます。仮に出場機会がなくとも「自分もチームの一員として役割を果たせている」と気づいてもらい、僕もそれをしっかり評価してあげる。それによって「この人は俺を起用してくれない」ではなく「この人の下にいれば学べることがある」と選手に感じてもらい、お互いに尊敬しあえる関係づくりを図っています。
試合の内容が悪いと落ち込む選手もいる。そうでなくても現代は誰もがストレスを抱えている。そこを生き抜くには、悔しさやストレスをどう力に変えていくかが大事です。メンバーによく言うのは「ディズニーランドでミッキーがふてくされて踊らない日がある?」ということ。最高のプレーを求めて観客の皆さんが集まってくれるなら、自分たちはそれを見せる努力をしなくてはならない。誰もがミッキーになれるわけじゃないけれど、そこを目指すのがプロなんです。だからこそ僕は、ストレスを抱えながらも前進していけるように彼らに指導しています。ストレスのかかる状況も、考え方次第でプラスの力に変えられる。僕自身もストレスはめちゃめちゃ感じていますよ。でも、前向きにやっていかなかったら面白くないじゃん、と常に選手に語りかけています。
先生によく呼び出された(!?)体育教官室へ。こわごわ足を踏み入れ、やんちゃだった中高時代の謝罪ポーズを再現。
「好き」をエンジンに、困難な時もやり抜いてきた。
10年前は、こんな場所にいるなんて思ってもいなかった
2023年にはパリ五輪の予選となるFIBA2023に日本代表のACとして参加しました。僕が初めてプロチームのHCを任された思い出の地、沖縄での最終戦。バスケが日本中の注目を浴び、エネルギーが集まっていた試合の雰囲気は格別でした。もう二度と経験することはないと思ったくらい、本当にファンの力がすごかった。会場に響く異様な大声援の中、パリ五輪の出場権を獲得できた時は感無量でした。いよいよ開幕するパリ五輪では日本代表メンバーを支え、勝利のために何かひとつでも成し得たいと思っています。
僕は33歳という、普通ならあり得ない若さでプロチームのHCになり、代表ACにもなれました。人より早くいろんな経験をさせてもらい、とても幸せな人生を歩んできたと感じています。「今後の目標は?」とよく聞かれるのですが、僕は明確に目標を決めないタイプ。そもそも10年前はこんな場所にいると思っていなかったくらい(笑)。これからは、バスケ界にどれだけ返していくか。例えば若い子どもたちにバスケを教えるとか、その返し方はこれから探していくことになると思います。
高校時代の担任でもある、体育の土屋先生と廊下で再会。
「先生、知ってました? 実は僕あの時......」と昔話に花が咲く。
後輩たちへ、今伝えたいこと
好きなバスケを追い続けて、気づけば今の場所に立っていました。僕を動かしているのは「好き」というエンジンです。今は、多種多様なものがあって、何にでもなれる時代ですよね。その中で自分の好きなもの、追いかけられるものをどれだけ見つけられるかが大事なんじゃないかな。今、成蹊学園に通っている後輩の皆さんも「これ、好きだな」と思えるものに出会えたら、とことん打ち込んでください。どうか恥ずかしがらずにね。「好きだから頑張り続けよう」という思いの強さが、この先、困難を乗り越えて生きていくための原動力になってくれるはずです。