研究

文学部今田絵里香

少年少女雑誌の投稿文化に関する研究

少年少女雑誌の投稿文化

 わたしは戦前戦後日本の少年少女雑誌について研究しています。とくに戦前の少年少女雑誌の投稿文化について明らかにしようとしています。戦前の少年少女雑誌の読者たちは、中学校・高等女学校に在学する少年少女たちが多数を占めていました。したがって、少年少女雑誌の文化を明らかにすることは、中等教育以上の学歴を獲得しようとしていた社会階層の少年少女たちの文化を明らかにすることにつながるといえます。

図1:『「少女」の社会史』(勁草書房、2007年)、『「少年」「少女」の誕生』(ミネルヴァ書房、2019年)
 

投稿に夢中になっていた少年少女たち

 1900、1910年代、雑誌を購読できる社会階層の少年少女たちは、作文、俳句など、さまざまな文芸作品を少年少女雑誌に投稿していました。そもそも1877年(明治10年)、『穎才新誌』(製紙分社)という作文投稿雑誌が生まれ、少年少女たちは文芸作品を投稿するようになりました。その後、1888年(明治21年)、『少年園』(少年園)という少年雑誌が生まれ、それをきっかけにしてたくさんの少年雑誌が生み出されました。また1902年(明治35年)、『少女界』(金港堂書籍)という少女雑誌が生まれ、それを契機にしてたくさんの少女雑誌が誕生しました。そして少年少女たちは、作文投稿雑誌の代わりに少年少女雑誌に文芸作品を投稿するようになったのでした。たとえば、『日本少年』(実業之日本社)の投稿数が載っている号(1906年7月号~1910年6月号)を見ると、最多の投稿数は1910年6月号の「狂句」の3万7句、また『少女の友』の投稿数が載っている号(1908年3月号~12月号)を見ると、最多の投稿数は1908年12月号の「歌つなぎ」の1526首であったことがわかります。もちろんこれらは1か月の投稿数です。いかに当時の少年少女たちの投稿熱がすさまじいものだったかをうかがうことができます。

図2:『日本少年』1927年5月号(実業之日本社、高畠華宵、著者所蔵)。ここには学生帽をかぶった少年が描かれています。雑誌を購読でき、中等学校に進学できる社会階層の少年が表現されているといえます。

投稿文化と作文教育

 なぜ少年少女たちは投稿に熱狂していたのでしょうか。この背景にあったのは当時の作文教育です。当時の作文教育では、少年少女が大人の漢詩文・模範文を覚え、それを模倣して文章を書くことがおこなわれていました。そしてこれは近世のエリートの文化(漢詩文を身につけることが期待された武士の文化)、および、近代のエリートの文化(明治普通文を身につけることが期待された学歴エリートの文化)によって支えられていました。したがって当時の学歴エリートは、世に名文として出回っているような漢詩文・模範文を書けることが必要不可欠であるとされていたのでした。たとえば、神童を褒める言葉に「末は博士か大臣か、あるいは大将か」というものがあります。この言葉のとおり、『日本少年』では学者、政治家、軍人が理想の存在とされています。しかしそこにおいては学歴があること、名文を書けることが重要視されていたのです。『日本少年』によく出てくるのが乃木希典です。乃木希典は軍功のある軍人であり、学歴エリートであり、漢詩人であることが繰り返し語られていたのです。
 このように見てくると、当時の「学歴エリート」のイメージが現在のそれとは違うことが浮かび上がってきます。当時、雑誌を購読できる社会階層の少年たちがめざした「学歴エリート」とは、学歴があり、漢詩文の達人でもある者だったということができるのです。このように少年少女雑誌の投稿文化に焦点を当てることで、学歴獲得をめざしていた階層の少年少女たちが憧れていた「学歴エリート」について明らかにすることができるのです。

 

図3:『少女の友』1934年5月号(実業之日本社、深谷美保子、著者所蔵)。ここには長毛の洋犬を連れた少女が描かれています。ここでも、雑誌を購読でき、外国から輸入された洋犬を飼うことができる社会階層の少女が表現されているといえます。

Profile

文学部

今田絵里香

専門分野
メディア史、教育社会学、ジェンダー論
担当授業
メディア史入門、出版メディア論、歴史と社会、教育社会学、メディア・リテラシー演習B、演習など

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